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2019年5月22日 (水)

伏見桃山城(模擬天守と小天守)

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日は伏見桃山城に行ってきました。といっても、かっての伏見桃山城キャッスルランドに造られた模擬天守のことです。今日は、秀吉が築いた桃山城から現在までの歴史を簡単に振り返りながら、この城を見て歩きます。

JR奈良線、桃山駅で下車してここまで来ました。下の右の石碑には「明治天皇陵・昭憲皇太后陵」とあります。ここはこれらの御陵への参道入口で、上の写真のように背の高い杉並木の参道が続きます。

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しばらくすると、左手に「桓武天皇御稜参道」の石標があり、この道に入ります。

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こちらの参道は桃山丘陵の尾根を横断するようで、しばらく上りが続きます。

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尾根の高いところは風が強いそうで、おそらく昨年の台風によって倒れた木だと思われます。

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しばらく歩くと、参道は麓から続く車道を横切ります。この車道がかっての伏見桃山城キャッスルランドへの道です。

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伏見の桃山地区は東山から連なる丘陵の最南端に位置し、南には巨椋池が広がり水運により大坂と京都とを結ぶ要衝の地でした。(キャッスルランドは現在「伏見桃山城運動公園」となっていて、下はその駐車場のゲートです。)

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ここに三度に渡って「伏見城」が 築城されました。下はキャッスルランド時代に造られた「模擬大手門」。

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最初の城は「指月伏見城」と呼ばれます。文禄2年(1593)に入り明との講和交渉が動きはじめ、明の使節を迎え日本の国威を見せつける目的と、同年8月3日に拾丸(豊臣秀頼)が産まれたことが築城の契機となりました。

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秀吉は大阪城を秀頼に与え、朝廷に影響力を行使する聚楽第(甥の関白・秀次が所在)との間に位置する軍事・政治の拠点として、自らの屋敷跡に城を築きました。門を入ると、小天守(左)と大天守(右)が見えます。

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文禄5年(1596)7月12日深夜から13日にかけて「慶長伏見地震」が起こり、天守の上二層が倒壊する大きな損害を受けました。伏見城にいた女﨟73名、中居500名が死亡しましたが秀吉は無事で、台所の施設で一晩をすごしたといわれます。

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夜が明けて指月伏見城から北東の1kmにある高台、木幡山に仮の小屋を造り、秀吉はそこで避難生活を送りました。この災害を契機として10月27日には「慶長」に改元されました。天守の前の広場の奥に堀と橋がありました。

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伏見城の火災は起きなかったようで、木材などが再利用可能でした。地震が起きた2日後に避難した小屋の近くに「木幡山伏見城」造営が着手され、同年10月10日には本丸が完成しました。

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慶長2年(1597)5月には天守閣が完成して秀吉が移ってきました。秀吉は大坂城と伏見城を行き来しましたが、晩年は伏見城で過ごすことが多かったそうです。

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秀吉は、秀頼と五大老に後事を託して、翌慶長3年8月18日伏見城で没しました。二つの城を合わせても、伏見城での在城期間はわずか4年でした。

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秀吉の遺言より秀頼は慶長4年(1599)正月に大坂城へ移り、五大老の一人である前田利家が同年3月3日に病死、徳川家康は石田三成を同年3月10日に佐和山城へ追放すると、同年3月13日に留守居役として入城しました。(櫓門)

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翌慶長5年6月家康が会津征伐に動き出すと、小早川秀秋、島津義弘連合軍は鳥居元忠が城代となっていた伏見城を4万の兵で攻撃、同年8月炎上、落城しました。落城の際に自刃した家康家臣の血がついた床板が京都各地の寺に「血天井」として使われています。

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「樹霊碑」『永遠とおもえる ながき時のなか 樫立てり黄なる あやくもの果て』、この歌を詠んだ引野收(ひきのおさむ)は近くで40年間絶対安静の寝たきり生活を送りながら、歌人の妻・濱田陽子とともに命や平和の尊さを歌い続け、昭和の子規と呼ばれました。

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関ヶ原の戦いで勝利した家康は慶長6年(1601)3月に伏見城の再建を開始。木幡山伏見城を踏襲しましたが、北西部の建物群とそれを取り巻く堀は放棄され、翌年には藤堂高虎が普請奉行に起用され、同年末に「徳川期木幡山伏見城」が完成しました。

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この城は、大坂の陣後3代将軍家光まで将軍宣下が行われ居城となりました。しかし、一国一城令の主旨から元和5年(1619)に廃城が決まり、その後完全に取り壊されました。その時の建物や部材が京都だけでなく全国の寺社や城に残っています。

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伏見城跡は伏見奉行所の管理とされ幕末まで立入禁止となっていたそうですが、本丸跡などの主郭部分は後に明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)にされ、現在はその周辺の広い範囲が宮内庁管轄の立入禁止区域となっています。

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伏見城花畑跡に昭和39年(1964)に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設され、園内には洛中洛外図に描かれた伏見城を参考に5重6階の大天守と3重4階の小天守、櫓門などを伴った模擬天守が鉄筋コンクリート構造で造られました。ただし、キャッスルランドになる以前にコンクリートのままの天守閣が放置されていた時代が長くあり、その間の事情はよく分かりません。

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平成15年(2003)同遊園地は経営母体の近鉄によるリストラの一環で閉園、模擬天守は京都市民の運動によって保存されることとなり市に贈与されました。その敷地を含めて市の伏見桃山城運動公園として整備されました。

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平成19年(2007)10月、映画『茶々 天涯の貴妃』撮影のため東映が望楼の下に虎の装飾が施し、鯱を金色に塗り替えるなど大坂城に見立てた改修がなされ、これらの装飾はしばらくそのままとなっていました。

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模擬天守は耐震基準を満たしていないことから内部が非公開となり、バリアフリー対応などを含め改修が考えられましたが、財源の問題などにより現在のところ再公開のめどが立っていません。

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模擬天守とはいえ資料に基づいて造られ、多数の展示すべき伏見城の遺物や遺構も残っているので、ぜひ再公開の計画を進めてほしいものです。天守閣のない二条城でさえ、多くの外国人観光客で賑わっています。

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伏見稲荷の千本鳥居や嵯峨野の竹林のように、最近の観光客、特に外国人観光客は文化財の指定の有無よりも実感できる日本的な景観を求めていると思います。キャッスルランド時代の道路標識?

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コメント

こんにちは
伏見桃山城は行った事がありませんでした。
秀吉も「慶長伏見地震」で、オタオタして腰を抜かしたことでしょう。
太閤記は好きで、大河も何回も見ました。「夢のまた夢」の
最後は、ここだったんですね。

投稿: たっちゃん | 2019年5月22日 (水) 11:11

地震で秀吉が死んでいれば、
家康はどうなっていたのか。
前田利家がいる状態では、天下は取れなかったと思います。
歴史的に面白かったかもしれません。

投稿: munixyu | 2019年5月23日 (木) 19:26

★たっちゃんさん こんばんは♪
京都人にとっての伏見桃山城は、かってのキャッスルランドを思い出す「夢のまた夢」です。ジェットコースターなどの大型遊具やプールもあって、賑やかな遊園地でした。

投稿: りせ | 2019年5月23日 (木) 23:01

★munixyuさん こんばんは♪
秀吉は慶長伏見地震では難を逃れましたが、このとき方広寺の大仏も倒壊しました。後に秀頼が再建した大仏殿の鐘銘が、豊臣家が滅ぼされるきっかけとなったのは皮肉ですね。

投稿: りせ | 2019年5月23日 (木) 23:10

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