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2019年3月 9日 (土)

北向山不動院 都を護る不動明王

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の鳥羽離宮跡公園を後に、城南宮の北東の阪神高速(8号京都線)の高架下に来ました。上の写真の手前は城南宮の北を通る「新城南宮道」で、油小路通との交差点に道標があります。

交差点の北西に「白河天皇成菩提院(じょうぼだいいん)陵」があります。鳥羽離宮を造営した白河上皇(法皇)は、自身の墓所として鳥羽離宮の泉殿内に建立された三重塔に葬られました。しかし、現在では塔は失われ、33m四方の方丘墳墓となっています。

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白河法皇は、堀河、鳥羽、崇徳天皇の3代、43年間にわたり院政をしき、大治4年(1129)77歳で崩御しました。当初まだ成菩提院(三重塔)が完成しておらず、衣笠山の山麓で火葬、上品蓮台寺に仮埋葬、天承元年(1131)鳥羽上皇が成菩提院を完成して改葬されました。

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油小路通を渡り、新城南宮道に面して「北向山不動院」があります。天台宗の単立寺院で、一般に北向不動の名で親しまれています。

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下の鐘楼の梵鐘は、江戸時代の元禄7年(1694)、京釜師 ・名越浄味(なごし じょうみ)によって鋳造され、二品済深(にほんさいしん)親王(霊元天皇皇子)の銘があります。

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大治5年(1130)、覚鑁(かくばん、興教大師)が鳥羽天皇の病気平癒を祈願した際に不動明王が出現、回復した天皇の勅命により創建され、興教大師が開山となりました。王城鎮護のため不動明王像は北に向けられていることから、「北向山」の名が起こりました。

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境内には不動明王を始めとした石像がたくさん奉納されています。左は興教大師を祀る開山堂、右の手水舎に「洗心水」が湧き出て、行者の修行や参拝者の心身を清める水だそうです。

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境内の西には多数の地蔵尊が並んでいて、下のお堂には、十方地蔵、延命地蔵、安産地蔵、六体地蔵、町内安全地蔵などの提灯がかかっています。さらに右の方にも地蔵尊が安置されています。

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境内のほぼ中央に毘沙門天がそびえ立ち、その前には「龍水泉」が湧き出ています。この水はお不動さんにお供えし、口や手などを洗ってはいけないとのことです。

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「本堂」は江戸時代の正徳2年(1712)、東山天皇の旧殿を移築したものです。北を向いて建っています。

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本尊の「不動明王」(重文)は覚鑁が仏師・康助に刻ませた、あるいは、自らが彫ったともいわれています。この地は平安京の真南に位置し、創建時から都を守るために不動明王は北向きに安置されているそうです。

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不動明王は秘仏とされ、毎年1月16日の「御開扉特別加持祈祷」のときだけ開帳されます。この日は、開基の鳥羽天皇の生誕日で、一願の護摩の煙にあたると、ひとつだけ願い事がかなうといわれています。

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本堂の前に「鳥羽天皇遺愛の松」があります。まだ若い木で、当時の松の子孫かも知れません。

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ところで、開山の覚鑁(1095-1143)は肥前国に生まれた真言宗の僧で、真言宗中興の祖、新義真言宗始祖といわれます。13歳で仁和寺成就院に入り、16歳で得度・出家しました。(本堂の東に薬師如来を祀る薬師堂があり、その右にも洗心水が湧いています。)

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東大寺などで学び、20歳で高野山へ入ります。35歳で真言宗の伝法のすべてを修め空海以来の才と称されました。鳥羽上皇の病を治して帰依を受けて荘園を寄進され、北向山不動院の開山となったのはこの頃です。(薬師堂の横に「不動滝」があります。)

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当時の真言宗総本山・高野山は、信心の薄い下僧や、権力に眼を眩ませる上僧が幅をきかせた腐敗衰退した状態でした。これを嘆いた覚鑁は自ら宗派の建て直しを決意します。(滝行の場所のようで、水の後ろに不動明王がいて周囲は苔むしていてます。)

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長承元年(1132)覚鑁は鳥羽上皇の院宣を得て、高野山に大伝法院と密厳院を建立、大伝法院座主に就任しました。(滝の右に、修験道の開祖とされる「役行者(えんのぎょうじゃ)」がいます。)

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滝の右手に多数の小さな社や石仏が積み上げられていて、その一番高いところに、左に「陀枳尼天」、右に「山王大権現」が祀られています。これらは、稲荷信仰や山王信仰が盛んだった江戸時代に建てられたものと思われます。

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さらに長承3年(1134年)には金剛峯寺座主をも兼ねて、事実上高野山の主導権を制しました。その後の覚鑁による改革の強硬策に反発した上下の僧派閥は激しく反発しました。「歯神地蔵」

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遂に保延6年(1140)に覚鑁の自所であった金剛峯寺境内の密厳院を急襲して、これを焼き払ってしまいました。その時の逸話があります。(東門から外に出ます)。

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覚鑁の命を狙って密厳院不動堂に僧徒が乱入しましたが、本尊の不動明王が二体も並んでいます。僧徒らはどちらかが覚鑁が変化したものと考え、錐を刺してみると両方の膝から血が出ました。覚鑁と不動明王の関係に恐れをなした僧たちは逃げ出したそうです。

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覚鑁は辛くも一命を取り留め、有名な「きりもみ不動」の伝説が生まれました。またこれら一連の騒動を「錐もみの乱」というそうです。ここから先は、最後の目的地、安楽寿院の境内になります。

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コメント

龍水泉、お供え以外に使ってはいけないって
不思議な水ですね。
余計に飲みたくなってしまいます。

投稿: munixyu | 2019年3月10日 (日) 13:25

★munixyuさん こんばんは♪
龍水泉がお供え以外に使ってはいけない理由は書いていませんでしたが、もしかしたら水質が飲用に適していないのかも知れません。

投稿: りせ | 2019年3月12日 (火) 22:09

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