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2019年3月10日 (日)

安楽寿院 鳥羽離宮東殿の御堂

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の北向山不動院の東に安楽寿院があります。「安楽寿院」は真言宗智山派の寺院ですが、平安時代後期の保延3年(1137)に鳥羽離宮の東殿に鳥羽上皇が建立した御堂が始まりです。上は西門です。

門を入った右手に「白河法皇・鳥羽法皇 院政跡地」の石碑があります。このあたりは、鳥羽上皇(法皇)が造営を始め、鳥羽上皇が完成させた鳥羽離宮内の御所・東殿の中心地です。

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鳥羽天皇(1103- 1156)は父・堀河天皇の死後わずか5歳で即位し、実際の政務は祖父の白河法皇が行いました。20歳の時に崇徳天皇に譲位し上皇となりますが、白河法皇の院政は続きます。

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白河法皇没後、大治4年(1129)から院政を開始します。白河法皇の側近らを排除、自らの権限を強化、藤原得子(美福門院)を寵愛しました。永治元年(1141)には崇徳天皇を譲位させ、得子との間に生まれた近衛天皇を3歳で即位させます。(しばらく北に行きます。)

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翌・康治元年(1142)に東大寺戒壇院で受戒し法皇となりました。下の「冠石」は安楽寿院内で出土し、鳥羽上皇が法皇となったときに冠を埋めたといわれています。

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父・堀河天皇と並ぶ笛の名人として知られ、催馬楽や朗詠にも優れ、天永3年(1112)の白河法皇の60歳の御賀の際には自ら催馬楽を披露したそうです。東殿で崩御して御堂内の本御塔(ほんみとう、現在の「鳥羽天皇安楽寿院稜」の前身)に葬られました。

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更に北に行くと、大きな「石造五輪塔」(重文)があります。鎌倉時代の弘安10年(1287)の年号が刻まれています。高さが3mもあり、鎌倉時代の典型的な五輪塔とされます。微かに読める字から、阿弥陀信仰によって建立されたと推定されています。

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もう一度西門の前まで戻り、そこから境内に入ります。左手の鉄柵で囲まれた敷地に宝物庫(収蔵庫)があります。鳥羽上皇の念持仏と伝えられる「阿弥陀如来坐像」(重文)が安置されています。 現在は非公開です。

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鳥羽離宮内には南殿、北殿、馬場殿、泉殿、東殿 田中殿の御所や、それぞれに証金剛院、勝光明院、成菩提院、安楽寿院、金剛心院などの御堂(寺院)が建立されました。これらの御所跡や御堂跡の発掘調査によって様々な景石が出土しました。

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出土した景石を活用するため、収蔵庫の周囲の庭園に移築復元を行うことになりました。上の正面は勝光明院の阿弥陀堂壇跡の州浜から出土した景石、下は金剛心院跡から出土した滝石組と鑓水の遺構。

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手前は安楽寿院出土の景石。安楽寿院にはかって大きな園池があり、この景石はその汀(みぎわ、水際)で出±したそうです。景石の大半は高野川流域から採取され、和歌山県周辺部から運ばれたと推定される和泉砂岩や緑色片岩も見うけられるそうです。

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「三宝荒神社」 当院は何度も火災にあってきて、特に天文17年(1548)の火災では伽藍の大部分を失ったようです。慶長11年(1606)の復興のとき、もう火災に遭わないようにと、荒神様が勧請され、以後400年以上一度も火災にあっていないそうです。

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「三如来石仏」 平安時代の作で釈迦、弥陀、薬師三尊の石仏が江戸時代に出土したと伝えられ、弥陀三尊像は京都国立博物館に寄託。凝灰岩でできており、昔は石仏を削って水で練り子供の顔に塗ると疱瘡が直るとされたため傷んでいます。

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創建された安楽寿院は、浄土教に基づき極楽浄土を希求するため阿弥陀三尊を本尊とし、その後、本御塔、九躰阿弥陀堂、閻魔堂、不動堂、新御塔(しんみとう)が次々落慶しました。しかし、慶長元年(1596)山城・伏見に大地震が起き、新御塔が倒壊しました。

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そのとき一時しのぎに、とりあえず仏様を安置できるように建てたお堂が下の「大師堂」です。弘法大師像を本尊とし、その他に大日如来、薬師如来、聖観音、十一面観音、千手観音、地蔵菩薩、不動明王、歓喜天など旧塔頭の仏を祀っています。

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「鐘楼・梵鐘」 鐘楼は慶長11年(1606)に豊臣秀頼により当院が大修復されたときに建立された建物ですが、現在は柱、梁に当時の材を残すのみです。梵鐘は元禄5年(1692)に鋳造されたもので、除夜の鐘のときだけ撞くそうです。

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「阿弥陀堂」 台風の被害がもとで倒壊した本御塔の後身のお堂の代わりに本尊を祀るために昭和34年建立されました。当院の本尊「阿弥陀如来像」(重文)を祀っています。

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門の中に「書院・庫裏」があります。書院と庫裏は同じ建物で寛政7年(1795)の建立、内部で便宜上分けられています。この建物は元々「前松院」という塔頭寺院だったものだそうです。

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安楽寿院は、鳥羽伏見の戦い(1868年)では官軍(薩摩軍)の本営になりましたが、兵火は免れています。南にある通り(新城南宮道)の西に、昨日の記事の鳥羽伏見の戦い勃発の地があり、薩摩郡はこの道から大砲を放ったそうです。石標は「明治天皇御小休所」。

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話は平安時代の鳥羽離宮の頃に戻ります。崇徳天皇を譲位させて3歳で即位した近衛天皇でしたが、久寿2年(1155)に17歳で早世してしまいました。当初、ここには鳥羽上皇の皇后・美福門院の寿塔(生前に造る墓)と予定されていた新御塔(しんみとう)がありました。

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ところが、美福門院(1160年没)は遺言により高野山に葬られることになり、新御塔には近衛天皇が葬られました。近衛天皇没後、鳥羽上皇は第4皇子の後白河天皇を即位させ、崇徳上皇の皇子が皇位と継ぐ可能性が失われ、保元の乱が勃発、破れた崇徳上皇が配流されます。

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新御塔は豊臣秀頼により慶長11年(1606)多宝塔形式で再建されました(当初の本御塔、新御塔は三重塔だったそうです)、現在、「近衛天皇安楽寿院南陵」として宮内庁の管理下にあります。天皇の陵墓に多宝塔を用いるのは稀有な例だそうです。

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「史跡安楽寿院境内」の石標と案内板。

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