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2019年2月 8日 (金)

寂光院 雪の境内と建礼門院

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

雪の大原で最後に訪れたのが寂光院です。「寂光院」は山号を清香山、寺号を玉泉寺という天台宗の尼寺です。当初は玉泉寺の子院だったそうです。表門を入ると右に拝観受付があり、山門まで急な石段が続きます。

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寂光院は、推古2(594)年に聖徳太子が父の用明天皇の菩提を弔うために建立したと伝えられます。初代住持は聖徳太子の御乳人・玉照姫(たまてるひめ)で、敏達13年(548)に出家した日本仏教最初の三比丘尼の一人で、慧善比丘尼といわれます。

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本堂は桃山時代頃の建築の特色を残しているといわれていましたが、平成12年(2000)5月不慮の火災により焼失してしまいました。焼け残った木組みや部材を入念に調査し、材木を吟味して、平成17年6月かっての本堂の姿に再建されました。

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その後、代々高貴な家門の姫君らが住持となり法燈を守り続けてきたと伝えられますが、史料が焼失して名前が伝わっていません。(右手には書院があり、その横から本堂へ廊下が続いています。)

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「四方正面の池」 本堂の東側にある池で、池の四方は回遊できるように小径がついており、本堂の東側や書院の北側など、四方のどこから見ても正面となるように、周りに植栽が施されています。

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北側の背後の山腹から水を引いて、三段に分かれた小さな滝から水が流れ込んでいます。

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本尊は六万体地蔵尊と称される鎌倉時代造立の地蔵菩薩立像(重文)でしたが、先の火事で大きく焼損してしまいました。(財)美術院において修理を施されて、現在は境内奥の耐火構造の収蔵庫に安置されています。(本堂から見た山門)

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新しいご本堂には、国宝修理所の小野寺久幸仏師によって、形・大きさともに元通りに復元された新たな地蔵菩薩立像が安置され、鎌倉時代の制作当時そのままの美しい彩色です。下の2枚の画像はパンフレットからの転載です。

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寂光院では左の阿波内侍(あわのないじ)を第2代、右の建礼門院徳子を第3代の住持と位置付けています。本堂に安置されてい両像は平安仏所江里康慧仏師の造立で、浄土宗の墨染めの衣を着ています。寂光院は中近世には天台・浄土兼修の尼僧寺院でした。

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室町時代になると寺は荒廃しましたが、安土桃山時代には淀殿の寄進によって修復がはじまり、1603年には豊臣秀頼により本堂が再建されました。本堂の右手前にある「雪見灯籠」は鉄製灯籠で、秀頼が伏見城にあったものを寄進したと伝えられています。

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書院の横にある手水鉢は、秀頼が1601年に寄進したもので、銘が入っています。秀頼の母・淀殿は幼くして亡くなった鶴松を弔い、秀頼の身を案じて寂光院の復興に尽力し、徳川家康も協力したといわれています。

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ところで、第2代の阿波内侍は藤原信西の息女で、崇徳天皇の寵愛をうけた女官でした。崇徳天皇が配流され出家、その後永万元年(1165)に寂光院に入寺、証道比丘尼となりました。宮中では建礼門院に仕え、草生では大原女のモデルとされています。

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第3代の建礼門院徳子は平清盛の息女、高倉天皇の皇后、安徳天皇の母です。源平の戦の壇ノ浦で滅亡した平家一門と行動を共にしましたが、助けられて出家、文治元年(1185)に入寺、真如覚比丘尼と称しました。

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本堂の左側の庭園は『平家物語』にも描かれ、心字池を中心に千年の姫小松や汀(みぎわ)の桜、苔むした石のたたずまいが美しいとされました。

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「姫小松」は樹齢数百年になる五葉松の大木で、「汀の桜」と寄り添うように立っていましたが、先の火事で焼けてしまいました。池のほとりの柵の中に幹が残っています)。

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建礼門院は、滅亡した平家一門と我が子・安徳天皇の菩提を弔いながら、この地に侍女たちとともに閑居して終生を過ごしました。(汀の桜は新しく植えられました。)

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「諸行無常の鐘楼」 江戸時代に建立された鐘楼には「諸行無常の鐘」と称する梵鐘が懸かっています。鐘身の銘から当時の住持は本誉龍雄智法尼で浄土宗尼僧であることが分かったそうです。

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平家物語によると、文治2年(1186)の4月下旬、後白河法皇は忍びの御幸で寂光院の建礼門院の閑居を訪ねました(大原行幸)。西門を出た林の中に建礼門院が暮らした建物跡があります。

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その庵室は、「後ろは山、前は野辺、来る人まれなる所」だったそうです。庵室跡の右手奥に建礼門院が使用したという井戸があり、今も水が湧いています。

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法皇が建礼門院の身の上を憐れんだのに対し、建礼門院はの仏教六道になぞらえて自らの人生を振り返ったとされます(六堂語り)。

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旧本尊が安置れている収蔵庫。旧本尊の地蔵菩薩は、本堂が焼け落ち、真っ黒に焦げても凛として立ったままで、胎内仏は無事だったそうです。焼損しても重要文化財の指定がされたままなのは珍しい例だそうです。

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谷をはさんで向かいの山の中腹に、阿波内侍と建礼門院に仕えた3人の侍女(大納言佐局、治部卿局、右京大夫)の墓があります。阿波内侍は、後白河法皇の大原行幸の一切を取り仕切り、建礼門院の最期をみとったともいわれています。

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もう一度山門に戻り、石段を下る途中右手に宝物殿の「鳳智松殿」があります。寂光院に伝来する平家物語ゆかりの文化財や資料、火災にあった本尊の胎内仏などを展示しています。

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左手に茶室の「孤雲」があります。京都御所で行われた昭和天皇の即位の御大典の際に用いられた部材が下賜され、それをもとに茶室を造ったものです。孤雲の名は、大原行幸で後白河法皇が見た、粗末な庵室の障子に貼られた色紙の歌にちなんでいます。

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大江定基の「笙歌遥かに聞こゆ孤雲の上 聖衆来迎す落日の前」という歌とともに「思ひきや深山の奥にすまひして 雲居の月をよそに見んとは」という建礼門院の歌を見て、一行涙にむせんだといわれています。

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大江定基は、遥かな雲の上の落日の前に楽音と歌声とともに来迎する極楽浄土の菩薩たちを見たのに対し、建礼門院は「こんな山奥で(落日は見えず)、宮中で見た月を見ることになるとは」と嘆いた歌です。雲居とは宮中という意味です。

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建礼門院は庵室に阿弥陀三尊を安置して28年間祈る日々を送り、建保元年(1213)に58歳で亡くなりました。寂光院を出て右隣に「建礼門院大原西陵」があります。西陵とは、三千院の隣にある後鳥羽天皇と順德天皇の大原陵に対して西にあるからです。

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庵室跡の前に置かれた「合掌地蔵」。

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コメント

淡雪っぽいころの石段や山道は、
滑りやすいから歩くのが大変だったと思います。
やっぱり登山シューズを履いているのでしょうか。

投稿: munixyu | 2019年2月 8日 (金) 18:15

★munixyuさん こんばんは♪
雪が深いときは登山シューズを履きますが、道が凍ったようなときはストック(トレッキングポール)が助かります。

投稿: りせ | 2019年2月12日 (火) 22:01

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