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2019年2月 6日 (水)

雪の大原 勝手神社から念仏寺へ

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

節分で中断しましたが、雪の大原がもう少し続きます。来迎院を出て呂川沿いの道を三千院の方に戻ると、途中に勝手神社の鳥居があります。鳥居をくぐり、両側を石積みで囲まれた参道をしばらく歩きます。

三千院を囲む石垣、実光院や来迎院など周辺の石垣はすべて「穴太積」だといわれています。滋賀県の石工集団・穴太衆による自然石を積み上げた野面積(のづらづみ)で、戦国時代の城壁に多用されました。しばらく歩くと律川にかかる橋が見えてきます。

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橋の上から見ると、下流の方に三千院のあじさい苑にある上の橋が見えます。その橋は観音堂から続く道にあり、そこから「二十五菩薩 慈眼の庭」が山側(こちら側)に延びているので、ここは三千院の境内に隣接していることが分かります。

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「勝手神社」の創建について、三千院の寺伝によると平安時代の天治2年(1125)、良忍上人が声明道場の守護神として多武峰(とうのみね)から勧請したとされます。良忍上人は来迎院を創建、融通念仏を始め、分裂していた天台声明を大原声明として統一しました。

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一方、江戸時代の1682年に刊行された黒川道祐の『北肉魚山行記』によると、来迎院南坊開祖が吉野の勝手神社から勧請したとされます。橋を渡ると手水鉢があり、この先のちょっとした広場が神社の境内です。

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南坊開祖が吉野山に参詣したとき、勝手神社の祭礼を見かけました。そのとき、神輿が動かなくなり皆が不審に思っていると、小童子の明神が神輿に乗り移っています。開祖が声明を唱えたところ神輿は無事に進むことができ、帰山してすぐに勧請したとされます。

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いずれにしても、本殿には「勝手明神」を祀り、魚山の三千院、勝林院、来迎院などの守護神として、この地域に住む人々にも信仰されてきました。(本殿の石段がほぼ垂直で幅が狭く、つま先しか足がかかりません。)

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本殿の横の米寿のお礼に奉納された「枡飾り」。四角と棒は「米」にちなんだ枡(ます)と杵(きね)を表しているそうです(以前のコメントであまのんさんから教えていただきました)。昨年に奉納されたものもあり、この風習は今も続いているようです。

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本殿の右に祠があります。こちらも石垣の上にあり、本殿から石垣の上を伝って行きます。

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祠の下には小さな狐が飾ってあるので、稲荷社ではないかと思います。

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本殿の左には収蔵庫があり、新しい建物のようです。

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収蔵庫の横から、三千院あじさい苑の下の橋が間近に見えます。川のこちら岸に点々とある黒いものが「わらべ六地蔵」で、三千院からは雪のため近づけませんでした。

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勝手神社を後に呂川沿いの道を下っていくと、右手に三千院の石垣、左に良忍上人の半生を描いた「良忍上人絵伝」が並んでいます。

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三千院の石段下まで戻り、津川の橋(魚山橋)を渡って山沿いの道に向かいます。橋の向こうの左に見える「魚山園」は、大正13年創業の料理旅館の老舗でしたが、昨年廃業したようです。

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こちらは橋の手前の一福茶屋のものです。

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魚山橋を渡ったところにあるカフェ・甘味処「紅葉庵」、呂川の谷の崖の上にあり、三千院の石段参道からも見えます。確かに紅葉の頃は美しい景色になります。

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山沿いの道をしばらく歩くと、「大原念佛寺」の山門があります。かっては、お地蔵さんの寺として知られ、その由緒は分かりませんでした。

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3年前に「後醍醐天皇の皇子で、後の天台座主・尊雲法親王によって、三千院の塔頭寺院として開山された」という記事を見つけました。尊雲法親王は護良(もりよし)親王の幼名です。

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護良親王は梶井門跡(後の三千院に)入り、17歳の時には梶井門主となり、19歳から22歳の間に2度にわたり天台座主となりました。親王は武芸を好み、戦う天台座主ともいわれ、後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕運動には還俗して参戦しました。

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さらに、鎌倉幕府滅亡後の後醍醐天皇による「建武の新政」では征夷大将軍に任じられました。しかし、もう一人の討幕の功労者、足利尊氏とは相容れず、父の後醍醐天皇とも不和となります。この石像は後で説明があります。

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状況を変えようとした護良親王は、令旨を発して兵を集め尊氏討伐に乗り出します。尊氏がこの令旨について後醍醐天皇に詰め寄ると、天皇はあずかり知らぬことと、護良親王を突き放しました。

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結局、護良親王は皇位簒奪(資格がないものが皇位を奪うこと)を企てたとして、役職を追われ捕えられてしまいました。その後、関東各地で足利軍が北条軍に敗れると、その復権を恐れた足利氏の勢力によって護良親王は殺害されてしまいました、享年28歳でした。

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このことから、近世まで護良親王は皇位簒奪を企てた逆賊とみなされてきました。現在では事件は濡れ衣とされ、尊氏討伐には後醍醐天皇の密命があったという説もあります。私は、皇室をはばかって、念佛寺の由緒を公けにしてこなかったと思っていました。

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ところが、3年ほど前から念佛寺は積極的な活動を始めたようで、現在ではHPも作られています。それによると、本尊の阿弥陀如来は護良親王の護持佛と伝えられているそうです。上の写真が本堂で、そこから大原の棚田と里が見渡せます。

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文化14年(1814)に火災に遇い、ことごとく焼失して再建したので、詳しい由緒が不詳だそうです。再建された堂宇も昭和9、10年の台風により倒壊、流失してしまいました、その後の再建の際に、高橋三広氏によって等身大石仏(上の写真)が造られました。

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そして上野の浄名寺の八万四千体地蔵尊の内、第五万四千九百四十二番が勧請されました。境内にある多くの石仏も再建の過程で安置(奉納)された地蔵のようです。この日は、本堂の向かいに建物が建築中で、屋根の形からお寺のお堂と思われます。

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「幽玄な里山を一望できる地蔵信仰の寺」(HPより)として、大原念佛寺は再建途中なのかも知れません。

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コメント

今年は節分が終わって立春で、
一気に暖かくなりましたね。
寒の戻りが怖いですが、春の近づきを感じて嬉しいですよね。

投稿: munixyu | 2019年2月 6日 (水) 15:01

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