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2019年1月23日 (水)

西福寺と幽霊子育飴

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

松原通を東大路から西に行くと、六波羅蜜寺へいく道の角に西福寺があります。この角は六道の辻といい、古くより葬送地・鳥辺野の入口に当たりました。葬送地に送られる亡骸の無常所(墓)になっていて、周辺にかつて6つの仏堂があり現在は3つが残っています。

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「西福寺」は、正式名称を桂光山敬信院西福寺という浄土宗鎮西派の寺院です。

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平安時代初期、この地に弘法大師・空海(774-835)が辻堂(地蔵堂)を建立し、土仏地蔵尊を安置したのが始まりとされます。

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嵯峨天皇皇后の橘嘉智子(786-850)は、この地蔵堂に参詣し空海に帰依したといわれます。また、空海は、814年嵯峨天皇皇子・正良親王(810-850、後の仁明天皇)の病平癒を祈願し、以後、土仏地蔵は子育て地蔵とも呼ばれました。

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子育て地蔵は中央左の奥に祀られています。その他、たくさんの水子地蔵が奉納されています。

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鎌倉時代初期、第77代・後白河天皇(1127-1192)は、熊野詣千日修行に際し不動尊堂に籠り、地蔵尊に道中の安全祈願を行う。帰京後、那智の不動尊を勧請し、地蔵尊の守護神として、不動堂に末廣不動明王が安置されました。山門を入った正面が不動堂です。

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室町時代以後になると、熊野比丘尼(尼僧)たちが付近に移住し、絵解きして熊野詣を勧めたといわれます。絵解きとは、琵琶を奏でながら、地獄絵などの絵図を示して講釈することで、平安時代末期から始まりました。 

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安土桃山時代の1603年、毛利家家臣・井上安芸守は地蔵堂に籠り、関ヶ原の戦い(1600)で斬首刑になった安國寺恵瓊の菩提を弔いました。そして、蓮性を開山として堂宇を建立して桂光山敬信院としました。その後、衰微する。(円福寺像)

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江戸時代前期の1678年、日向の僧・念故が中興、中期の1726年には関白・二条綱平が父・九条兼晴(禅門円学、1641-1677)のために再興し、現在に至ります。(本堂には本尊の阿弥陀如来坐像を祀ります。)

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このあたりでは、盂蘭盆に先立って六道詣りが行われています。かっては、その時期に寺が所有する熊野観心十戒図を用いて、住職による地獄絵絵解きが行われていましたが、中断してしまいました。

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2006年、京都造形芸術大学教授・関本徹生らにより絵解きが復活、以後京都造形芸術大学 学生プロジェクトが絵解きを主催しています。 絵解きの背景音にはクラリネットやバイオリンが使用されているそうです。熊野観心十界図(地獄絵)

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ところで、嵯峨天皇皇后の橘嘉智子は、天皇没後も皇太后、太皇太后として権勢をふるい、仁明天皇の皇太子恒貞親王が廃された承和の変 (842)にも関わったといわれます。(こちらにも「迎え鐘」があります。)

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一方で、仏教への信仰が篤く、嵯峨野に日本最初の禅院檀林寺を創建したことから檀林皇后と呼ばれます。また、橘氏の子弟のために大学別曹学館院を設立しました。本堂の上に弘法大師と壇林皇后の絵が掲げられています。

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また、世に類なき麗人であったといわれ、橘氏出身としては最初で最後の皇后でした。下は寺宝の「壇林皇后九相図絵」、壇林皇后の風葬を描いたといわれる江戸時代初期の作で、宮殿での豪華絢爛とした生活が終わり病に臥すところから始まり、

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やがて屍は朽ち果て骨のみが残され、骨も野ざらしになり散乱して土に帰り、墓碑だけが残ります。壇林皇后は「諸行無常」を自らの身で示し、人々の心に覚りを求める心を呼び起こすために、遺体を帷子ノ辻に放置して、その変化を絵師に描かせたとわれています。

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本堂の前に壇林皇后の歌碑があります。「はかなしや朝夕なでし黒髪もよもぎが本のちりとこそなれ」 ”もよもぎが本”は”蓬の下”という意味です。

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西福寺の斜め向かいに「みなとや 幽霊子育飴本舗」があります。安土桃山時代のある夜更け、六道の辻の飴屋に、青白く痩せこけた20代中頃の女が訪れ、か細い声で一文の飴を分けてくれといいます。主人は仕方なく飴を渡すと女は闇の中に消えました

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翌日の夜半にも女は現れ、7日目の夜に店の売り上げが一文あわず、代わりに一枚の樒(しきみ)が入っていました。次の晩、主人は思い切って女を追うと、六道の辻から清水坂を上り、さらに人気の絶えた鳥辺山の墓地に入りやがて消えました。

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翌朝主人は寺の住職に経緯を話し共に昨日の墓地を訪れると、女が消えた辺りから子の泣き声が聞こえます。急いで土を掘り返すと、棺桶の中の亡くなった母親の傍らで泣く赤子がいて、飴をしゃぶっていたといいます。

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子育飴は麦芽糖とザラメ糖のみから作られ、あっさりした味です。また子育飴の伝説は水木しげるのゲゲゲの鬼太郎が誕生するきっかけとなったといわれています。

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子育飴の話には続きがあります。赤子は8才まで飴屋に預けられ、その後出家して高僧となったといわれます。六道珍皇寺や高台寺の僧ともいわれていますが、立本寺第20世・日審上人だというのが一番具体的です。立本寺でも幽霊子育飴が売られています。

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