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2018年11月 9日 (金)

秋の琵琶湖疏水3 南禅寺船溜へ

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事で琵琶湖疏水を遡って仁王門通まで来ました。ここから先は仁王門通に沿って東西の流れになります(下は「みやこめっせ」)。*記事の最後のお願いをよろしく。

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琵琶湖疏水は京都の近代化に大きく貢献した大土木事業でしたが、今日はその工事が行われるまでの経緯を紹介します。

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かっては、琵琶湖を利用して北陸地方から運んできた物資を、大津で牛車に積みかえて京都に運んでいました。コストがかかるので琵琶湖から水路を開いて水運による大量輸送は長年の懸案でした。

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疏水計画は江戸時代からあり、古くは寛政末(1800)頃の疏水計画図が残っています。天保12年(1841)壬生村の農民が京都町奉行所に請願した計画、文久2年(1862)豊後国(大分県)岡藩主中川久昭が朝廷に申請した計画などがあります。(京都国立近代美術館)

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明治に入ってからも、明治5年(1872)下京の住人が京都府庁へ請願した計画や明治7年(1874)に滋賀県が立案した外国資本を導入する計画等がありました。

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一方、明治の東京遷都により、公家や官吏、有力商人達が京都を離れ、人口は35万人から20万人余りに激減して、京都は衰退しつつありました。(神宮道が通る「慶流橋」の上から西の方。)

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そのような中で、初代京都府知事となった長谷信篤(ながたにのぶあつ)は、正三位の公家から新政府の参与や議定に就任した有力政治家でした。彼が中心となって租税免除の特典や10万円の産業基立金、15万円の勧業基立金などの復興資金を獲得しました。

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温厚な人柄で、長州藩士広沢平助、松田道之(後の滋賀県知事)らを起用して民政に当たらせました。明治4年(1871)には槙村正直を参事として起用、以降は彼が事実上の府政を掌握、明治5年(1872)には一大歓楽街を作ため新京極通を通しました

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明治8年(1875)槙村正直は京都府権知事(同10年に第2代知事)となり、山本覚馬ら有識者を重用して果断に近代化政策をすすめました。我が国初の小学校、舎密局、博物館、女紅場、画学校、外国語学校、貧民授産所などを次々と設立しました。(京都市美術館)

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しかし、近代国家の体制ができあがり、地方政治の制度が整ってくると、槙村の強引な施政は批判をあび、新たにできた府会との対立も生じ、明治14年(1881)辞表を提出しました。(このあたりではアオサギが縄張りのためか、等間隔に陣取っています。)

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第3代知事となった北垣国道(くにみち)も勧業政策に重きを置きましたが、槙村の強権的手法と異なり、府会や府民も巻き込みながら老練に府政を推進しました。(岡崎道が通る「広道橋」の上から西の方。)

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疏水計画が立てられたのは槙村知事の時代でしたが、後任の北垣知事が主導して事業が推進されることになりました。この計画は各種の用水、舟運、水力(水車)による交通や産業の動力確保などの多くの目的がありました。(向うは京料理の「岡崎茶寮 豆狸」。) 

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琵琶湖との水路だけでなく、鴨川を始め市内の河川は水量が乏しく、近代的な舟運や水利には不十分でした。(こちらは東の方で、正面は「琵琶湖疏水記念館」。)

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北垣は明治15年(1882)この大事業を実現するため各省庁を説得して、内務卿・山田顕義をはじめ大蔵、農商務各卿の賛意を得ました。(「京都市動物園」、ここにはかって白河天皇が建立した「法勝寺」があり、この地域にあった六勝寺のうち最大の寺でした。)

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観覧車は昭和31年(1956)に完成、本州にある現役最古の観覧車です。その場所に高さ81m(観覧車の約7倍)の巨大な八角九重塔があったといわれます。ちなみに現在の木造建築物では東寺の五重塔の55mが日本一の高さです。右上に大文字が見えます。

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一方で北垣は、北海道の開拓権判事の時代に面識のあった工部大学校(東京大学工学部の前身)に大鳥圭介校長を訪ね、技術的な相談をしました。(このあたりでは疏水沿いの散策路は「六勝寺の桜並木」と呼ばれています。)

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話を聞いた大鳥は、当時工部大学校学生であった田辺朔郎を呼び寄せて、北垣に紹介しました。田辺は執筆中の卒業論文を見せましたが、それは何と琵琶湖疏水に関するものでした。(疏水の右に白砂が堆積しているのは理由があります。)

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その後北垣知事が琵琶湖疏水計画を実行するまでには、まだ紆余曲折がありますが、それは後ほど。(南禅寺船溜、ここが鴨東運河の東端です。)

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「白川合流点」 「白川」は滋賀県と京都府との境界付近から南に流れ、四条で鴨川に注いでいました。琵琶湖疏水ができてからは、この地点で疏水に合流、神宮道の西で再び疏水から分流します。川の名は川底に堆積した白砂(石英砂)が由来とされます。

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白川の上流で採れる白川砂は、かって京都の寺院の庭園や神社の境内などに用いられましたが、現在は採取が禁止されています。細かい白砂がここまで運ばれてきて、疏水との合流点で堆積しています。

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向うの琵琶湖疏水記念館には、琵琶湖疏水の概要や工事の歴史的資料が展示されています。後に疏水工事の技術責任者となる田辺朔郎の卒業論文の草稿もありました。

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コメント

この時期のアオサギは、同じ青でも
何となく色が冴えてますよね。
不思議です。

投稿: munixyu | 2018年11月 9日 (金) 15:22

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