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2018年10月26日 (金)

三十三間堂 後白河法皇と源平の栄枯盛衰

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

久しぶりに三十三間堂を訪れました。ここは後白河法皇ゆかりの地で、政権が平家から源氏へと移る時代の朝廷政治の中心舞台でもありました。

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「三十三間堂」は正式には「蓮華王院」という天台宗の寺院です。蓮華王とは本尊の千手観世音菩薩を意味します。(回廊の北にある地蔵堂には大日如来、地蔵菩薩、阿弥陀如来などの石像が祀られ、幼児の夜泣き封じのご利益があるとされます。)

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ここは、平安時代中期の988年右大臣の藤原為光が邸宅「法住寺」を建てた場所です。平安時代末期の1156年、後白河天皇が寺の跡地に御所「法住寺殿」を造営しました。1158年には退位して上皇となりここで院政を始めました。

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1164年、後白河上皇の発願により、平清盛が御所の南殿の北西に鎮守寺の仏堂・蓮華王院を建造しました。朝廷では後白河院政派と二条天皇親政派の対立が激化して、後白河上皇は院政を停止されて信仰にのめりこんだ時期でした。(お堂の中は撮影できません。)

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やがて、後白河上皇は平清盛の助力もあって勢力を取り戻し、皇子の憲仁親王の立太子を実現しました。法住寺殿は、儀式用の南殿と憲仁親王の住む七条上御所、後白河院・滋子の住む七条下御所などがある北殿に分かれ、政治の中枢になりました。

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1169年に後白河上皇は、園城寺前大僧正・正覚を戒師として出家、法皇となります。本尊は「十一面千手千眼観世音」で、巨像・中尊を中心に左右各500体の総称です。中尊(国宝)は大仏師湛慶による鎌倉期の名作で、124体は平安時代のお堂創建時のものです。

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後白河法皇は政権を強化するために、高倉天皇(即位した憲仁親王)と清盛の女・徳子を婚姻させました。しかし、清盛の力が増大して後白河法皇との間に溝が生じ、1179年に清盛のクーデター(治承三年の政変)によって院政を停止されてしまいます。

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そして、住み慣れた法住寺殿を追われ洛南の鳥羽殿に幽閉されました。1180年に高倉天皇は安徳天皇に譲位して院政を始めました。(写経奉納塔)

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しかしながら、1181年に病気の高倉上皇が没し、翌月には清盛も亡くなりました。安徳天皇はまだ幼児だったので、後白河法皇が院政に復帰するしか道がありませんでした。(お堂の前にある手水舎には石仏が祀られています。)

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清盛は死に際に宗盛の後ろ盾を後白河法皇に申し入れましたが、院政を再開した法皇は平家の追放を決断します。そして、上洛した木曾義仲・源行家に平氏追討宣旨を下しました。(お堂は国宝に指定されています。)

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1183年には東国の源頼朝との平家後の所領の交渉のなかで、木曽義仲の排除を要求されます。一方、木曽義仲からは頼朝追討の宣下を出すように要求されましたが、頼朝の軍が近くに迫っていることを知りこれを拒絶しました。

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帰京した木曽義仲は法住寺殿を襲撃して(法住寺合戦)、後白河法皇を六条西洞院の御所に幽閉し、恫喝して頼朝追討の宣下を出させました。しかし、翌年正月に源範頼・義経軍の攻撃により木曾義仲は敗死して、後白河法皇は再び政権に復帰しました。

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1185年2月義経は壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼし、その功労として後白河院は頼朝を正四位下から従二位に叙しました。下は観音像の前列と中尊の四方に位置する観音二十八部衆像(国宝)は千手観音と信者を護るという神々です。

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その間、幕府を開いた頼朝と様々な面での駆け引きが続きました(朝幕交渉)。頼朝は九条兼実の摂政就任を求め、1188年2月には藤原秀衡の子息に奥州に逃れた義経追討宣旨を下すことを要請しました。

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翌年、藤原泰衡は義経を襲撃して自害に追い込みましたが、頼朝は宣下によらず軍を率いて奥州藤原氏を壊滅させました。

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1190年頼朝は千余騎の軍勢を率いて上洛し、かつての平家の本拠地・六波羅に新造した邸宅に入りました。二日後に後白河院と頼朝は院御所・六条殿で初めての対面を果たし、両者は他者を交えず日暮れまで会談したといわれています。

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詳しい話の内容は伝わっていませんが、頼朝は法皇に忠誠を誓い、法皇は頼朝を参議・中納言を飛ばして大納言に任じたといわれています。頼朝はおよそ40日間滞在し、後白河院との対面は8回を数えました。

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これによって、双方のわだかまりが払拭され、朝幕関係に新たな局面が切り開かれたといわれています。翌1191年、幕府の支援により戦乱と地震で荒廃していた法住寺殿の再建工事が始まりました。

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その年の暮、後白河法皇は完成した御所に移り、造営を担当した中原親能・大江広元に剣を下賜し、丹後局・吉田経房は頼朝に感謝の書状を送りました。公家の吉田経房は平家の時代から官僚の要職を務め、有能だとして後白河法皇、頼朝にも信頼されました。

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ころが法住寺殿に戻ってすぐに、後白河院は病にかかり、平癒を祈って非常大赦が出され、崇徳上皇の廟、藤原頼長の墓への奉幣、安徳天皇の御堂建立なども行われましたが、容体は回復しませんでした。

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溺愛していた丹後局との子・覲子内親王を先例を破って女院(宣陽門院)とし、覲子の将来を後鳥羽天皇に念を押し、丹後局に譲った所領を改めて安堵する文書を出し、1192年3月に66歳で没しました。「太閤塀」(重文)は安土桃山時代に築造され、方広寺の遺構です。

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鎌倉時代中期の1249年、建長の大火によって法華堂以外の大部分の建物が焼失しました。1266年には現在の本堂(国宝)が再建、877体の観音像が再造されました。慶派をはじめ院派、円派という当時を代表する奈良・京都の仏師集団が総動員されました。

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堂内両端の高い雲座に鎌倉時代作の「風神と雷神像」(国宝)が安置されています。風雨を司り五穀豊穣をもたらす神として信仰されてきました。以上の堂内の写真は頂いたパンフレットからの転載です。

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境内の南西隅にある「久勢稲荷大明神」 所願成就、如意満足と書いてあります。先日の台風によって瓦が落下する危険があるとして柵がしてありました。

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本堂の西縁は「通し矢」で知られています。長さ121.7m、高さ4.5~5.3m、幅2.36mの間を南(手前)から北に向けて矢を射る競技です。いくつか種類があり、射通した矢の数を競う「大矢数」が有名です。

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安土桃山時代から流行したといわれ、特に江戸時代初めの寛永年間以後は尾張藩と紀州藩の一騎討ちの様相を呈し、1686年に紀州藩の和佐範遠(大八郎)が出した総矢数13,053本中通し矢8,133本の記録は、それ以後破られていません。

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1973年に1001体の千手観音像(国宝1体、他は重文)は制作時期の特定など学術調査も兼ねた修復作業が始まり、2017年末に完了しました。今年(2018年)3月に「平安末期の王朝文化の華やかさを伝える壮大な群像」として1001体全てが国宝に指定されました。

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10月3日には三十三間堂で千手観音像の国宝指定を慶讃する法要が営まれ、東京、京都、奈良の国立博物館に寄託している5体も返り、26年ぶりに1001体がそろったそうです。

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コメント

源氏と平氏は、後白河法皇に振り回されて、
結局最後はどっちも滅びてしまいましたよね。
後白河法皇がもう少しいい人だったら、どちらも
もう少し長く繁栄できたかもしれませんね。

投稿: munixyu | 2018年10月26日 (金) 11:06

★munixyuさん こんばんは♪
お返事が滞りすみませんでした。後白河法皇は理解しがたい怪物ですね。武士のような武力をもっていないのに、源平どちらも無視できない存在だったのですから。

投稿: りせ | 2018年11月 4日 (日) 23:50

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