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2018年10月31日 (水)

方広寺と京の大仏

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の豊国神社の隣に方広寺があります。例の梵鐘事件で知られる方広寺ですが、かっては奈良東大寺より大きな大仏があり、「京の大仏」と呼ばれました。大和大路通に面して入口があり、右の石標は「伝教大師御作、豊太閤護持 大黒尊天」。

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安土桃山時代の天正14年(1586)天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、松永久秀の焼き討ちにより焼損した東大寺大仏に代わり、方広寺と大仏(毘盧遮那仏)の建立に取り掛かりました。当初は東福寺の近くに計画されましたが、工事は途中で中止になりました。

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場所を蓮華王院北側にあった浄土真宗佛光寺の敷地に変更して工事を再開、文禄4年(1595)にようやく方広寺が完成しました。その寺域は、現在の豊国神社、国立博物館、三十三間堂、妙法院を含むほど広大でした。(下は近年に再建された本堂。)

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大仏殿は高さ49.2mの重層瓦葺、大仏は造営期間短縮のため、当初計画された銅造ではなく木製金漆塗坐像で、高さは東大寺大仏をしのぐ約19mありました。天台座主・青蓮院尊朝法親王が導師になり、八宗800人の僧(千僧会)を招いて開眼法要が営まれました。

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しかし、慶長元年(1596)に起きた慶長伏見地震により、大仏は胸や左手が欠落してしまいました。このとき秀吉は「自らの身をも守れないのか」と大仏に対し激怒し、その眉間に矢を放ったと伝えられています。なおこのとき大仏殿は倒壊を免れています。(大黒天堂)

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慶長3年(1598)大仏(初代)は再建されましたが、その開眼法要を待たず秀吉は伏見城で死去しました。(大黒天尊像は伝教大師最澄が自ら刻み、鎧を身に着け、秀吉の護持仏だったとされます。)

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秀吉の遺志を継いで、子・豊臣秀頼が倒壊した方広寺の建物と、今度は銅製で大仏の再建を始めました。(手水舎、その向うに豊国神社の槇本稲荷神社が見えます。)

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しかし、慶長7年(1602)鋳物師の過失により仏像が融解して出火し、大仏殿も炎上してしまいました。江戸幕府が開かれた後の慶長13年(1608)、秀頼は家康の勧めにより再び大仏殿と大仏の復興を始め、慶長17年(1612)大仏殿と銅造大仏(2代目)が完成しました。

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慶長19年(1614)には梵鐘が完成、南禅寺の禅僧文英清韓に命じて銘文を起草させ落慶法要を行おうとしました。ところが、徳川家康により梵鐘の銘文に「不吉な語句がある」として、法要が中止させられました(方広寺鐘銘事件)。

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銘文中の「国家安康」、「君臣豊楽」の語句に対して、南禅寺の祟伝らが「家康」の名を切り離して呪詛するものと主張しました。一方、大仏開眼供養が中止された後、清韓は駿府に出かけ、家康の諱を祝意の「かくし題」として意識的に撰文したと弁明しています。

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しかし、この弁明を受けた五山の僧たちの答申では、いずれも家康の文字を分けたことではなく、当時の礼儀として諱を避けなかったことを非難しました。(向うは秀頼が再建した大仏殿の柱にまかれていた鉄製の輪で、手前は屋根の一部にまかれていた金具。)

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清韓は、銘文で豊臣、徳川両家の共存共栄を願ったとも弁明し、家康は未だに絶大な勢力を残している豊臣家が徳川幕府にとって危険な存在だと思い知らされたともいえます。(金具の中は大仏の蓮弁の一部。)

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大坂夏の陣(1615年)で豊臣家が滅亡した後も、方広寺と大仏は存続して妙法院常胤法親王が別当を兼職しました。

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寛永20年(1643)以降は「朝鮮通信使」の江戸からの復路に大仏殿前で招宴が催されました。徳川幕府は朝鮮と国交を修復して、その記念として幕末まで12回の朝鮮通信使が来日しました。(豊国神社の塀にそって東へ行く通路があります。)

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1662年の寛文地震で金銅の大仏(2代目)が崩壊、寛文7年(1667)に木像の大仏(3代目)が完成しました。この木造大仏は胸像ですが、高さはそれまでの大仏と同程度だったようです。「大仏殿跡緑地」には地下に大仏殿の遺構が埋まっています。

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その後の安永4年(1775)落雷により大仏殿が被災、後に修復。寛政10年(1798)には落雷により大仏殿、楼門、木造の大仏が焼失してしまいました。公園(緑地)の維持管理作業(剪定、徐草、薬剤散布など)を行っていますが、中には入れます。

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江戸時代後期の天保年14年(1843)に、尾張国有志の寄進により、大仏殿が再建され旧大仏を模した高さ2mの木造半身像(4代目)が造仏、安置されました。(小高くなっているのが当初の大仏殿の基壇跡で、くの字型の石で台座の範囲を示しています。)

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明治時代になると、方広寺の境内の大部分は上知(没収)され、鐘楼は破却されましたが梵鐘だけは残されました。明治10年(1877)の豊国神社移転で、残った境内の大部分を失いました。明治時代の前期に本堂と鐘楼が再建され、かっての梵鐘がかけられました。

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大仏殿の南にあった「南大門」は、三十三間堂東の「南大門」、西にあった「西大門」は東寺に移築されその「南大門」として現存、いずれも桃山時代建築の重要文化財に指定されています。(東隣に空地がありますが、ここも大仏殿の建物の範囲です。)

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昭和33年(1958)には大仏殿の改修が行われました。ところが、昭和48年(1973)の火事で天保以来の大仏殿と大仏は焼失してしまいました。安土桃山時代から、修造期間を除いても300年以上存続した「京の大仏」が失われてしまいました。

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平成12年(2000)から大仏殿跡の発掘調査が行われました。花崗岩の階段があり、大仏の台座は直径34mの八角形、大仏殿の床には敷石があり、敷石には寛政10年の火事の損傷が確認されました。豊国神社の本殿(右)と北政所を祀る貞照神社(左)が見えます。

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最近の調査では、秀吉期と秀頼期の大仏殿の基壇がそれぞれ検出され、秀頼再建時に基壇を秀吉期より約1m外側に拡げ、大仏殿の規模が一回り大きくなったことが確認されました。写真の丸い石は柱跡の位置と大きさを示しています。

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人々に親しまれてきた京の大仏は、交番や郵便局にその名が残るだけとなりました。

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コメント

家康は過敏になるほど、
没後とはいえ、秀吉・豊臣家の存在が大きく、怖かったのでしょうね。

投稿: munixyu | 2018年10月31日 (水) 11:53

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