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2018年10月28日 (日)

南大門(蓮華王院)から正面通へ

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

法住寺・後白河天皇陵を出て前の通りの南端にある「南大門」(重文)を見てきました。現在は三十三間堂の門ですが、かっては豊臣秀吉が建立した方広寺(大仏殿)の南門でした。本瓦葺の巨大な八脚門で、慶長5年(1600)豊臣秀頼によって建立されました。

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南大門の南の塩小路通を少し東に行くと「この付近 坂本龍馬 北添佶摩など土佐志士寓居跡」、「池田屋事件もうひとつの舞台地」という石標があります。龍馬の妻・お龍の晩年の回想録に、ここで母と妹が賄いをしていて、龍馬と初めて出会ったと書かれています。

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それが事実かどうか長年不明でしたが、北添佶摩の書簡が発見されて裏付けられました。幕末の池田谷事件では京都守護職などの役人に踏み込まれ、母と妹は連行(まもなく釈放)、北添は討ち死にしました。(三十三間堂の回廊は修復工事中でした。)

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「養源院」 安土桃山時代の文禄3(1594)淀殿が父浅井長政追善のため創建するも、後に焼失。江戸時代初めの元和7(1621)徳川秀忠夫人崇源院が伏見城の遺構を移して再建しました。参道の紅葉が美しいところで、今回は入っていません。

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七条通の南は「京都国立博物館」で、9月29日(土)~ 11月25日(日)の期間、特別展「京(みやこ)のかたな 匠のわざと雅のこころ」 を行っています。刀剣乱舞-ONLINE-コラボチケットやコラボグッズセット券がありましたが、既に完売したそうです。

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大和大路通との交差点に「大仏前交番」 方広寺の大仏は江戸時代にも造り替えられ、中期までに新旧3代が「京の大仏」として知られました。江戸後期に縮小して再建された大仏は昭和後期まで存続しましたが焼失。現在も「大仏」の名が残っている貴重な施設です。

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「京都国立博物館 正門」(重文) 正門は、本館や正門から続く柵塀とともに、明治25(1892)から同28年に建築されました。当時の帝国博物館美術部長であった岡倉天心が美術の鑑賞に主眼をおいて立案、宮内省技師の片山東熊が設計しました。

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現在は、団体でチケットを持っている場合に限り、正門から入館できます。下の大和大路通は泉涌寺通から三条通までの南北の通りで、かっての大和街道の一部です。、

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「方広寺の石塁」 全国を統一しつつあった秀吉は、天正16年(1588)に方広寺とその石垣の建造を始めました。自分の権力を誇示するため、人目をひく巨大な岩が使われているのが最大の特徴です。昭和44年(1969)に国の史跡に指定されています。

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博物館考古室による発掘調査によって、それぞれの石の奥行はあまりなく、板状の石を積み上げたことが分かりました。また、その裏側には大量の石仏や石塔が詰め込まれ、神をも恐れぬといわれた信長の城の石垣と同様だったそうです。

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「旅館 やまと」 緑地帯を挟んで通りの西側にはお店が並んでいます。

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「東山PINE」 古民家を改装したカフェで、店内のいたるところにパインのモチーフの小物が置かれ、ハワイ風に坪庭など和風も混じった雰囲気だそうです。夜にはライブも行われるとか。

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「京都和心館」 外国人観光客に日本文化体験を提供してきたワックスジャパンが、その経験とノウハウを生かして、バリアフリーの京町家で文化体験、料理教室、葡萄体験などを提供するそうです。体の不自由な方でも利用できる施設とスタッフが常駐しています。

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「木馬」 喫茶・軽食ですが既に閉まっていました。

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「耳塚公園」 この変わった名前は向うにある耳塚からつけられました。この公園の右が正面通です。

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かっての方広寺の石垣はまだ北に続いていますが、正面通を少し西に行きます。

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「正面通」の名は方広寺の大仏の正面の通りであることに由来します。ここから千本通までの通りですが、途中で渉成園(枳殻邸)、東本願寺、西本願寺などで中断します。現在では通りの正面には豊国神社があります。

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「耳塚(鼻塚)」(国の史跡) 天下を統一した豊臣秀吉は、さらに朝鮮半島に侵攻(文禄・慶長の役1592-1598)、武将らは首級の代わりに、朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ、塩漬にして持ち帰りました。それらは秀吉の命によりこの地に埋められ供養されたといいます。

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この戦争は、根強い抵抗によって敗退に終わりましたが、この塚は戦乱下に被った朝鮮民衆の受難を歴史の遺訓として今に伝えています。京都市では「人権ゆかりの地」として、市民および観光客に紹介する取り組みをしています。(明治に建てられた耳塚修営記念碑)

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「甘春堂東店」 菓子でできた抹茶や煎茶茶碗、コーヒーカップなどが人気だそうですが、「大仏餅」はかって門前で売られていた当初の製法を今につたえ、「京大仏」の刻印が入っています。和菓子教室も開催されています。

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「なかにしや京扇」 厳選された竹と絹織物によって作られる京扇子を、製造から販売まで一貫して行っています。同じ建物にある風香扇はオーダーメイド扇子の専門店です。店にいないときは、先ほどの木馬と公園の間の道を入ったところの仕事場にいるそうです。

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「専定寺(烏寺)」 1200年初め、専定法師が木陰で休んでいると、松の枝で二羽の烏が「今日は熊谷蓮生坊が極楽往生する」と話し南の空へ飛び去りました。同時刻に蓮生坊が死んだことを知り、烏は熊野権現の使いとしてこの地に草庵を結んだのが始まりです。

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「明治天皇御小休所下京第二十七区小学校阯」 明治5年(1872)に明治天皇が三重、大阪、伏見を経由して京都御所に入る前にこの地で休憩されました。明治2年に市民が開校した下京第二十九番組小学校は、明治5年に市の下京第二十七区小学校となりました。

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この後、豊国神社に向かいました。

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コメント

こんなところに耳塚があったのですね。
夜中に出たりしないか心配です。
秀吉はちょっと狂っていたのかもしれません。

投稿: munixyu | 2018年10月28日 (日) 11:55

★munixyuさん こんばんは♪
晩年の秀吉は、秀次事件で女や子供たちを皆殺しをするなど、正常ではなかったと思います。それも天下人としての理由があるという「歴史家」もいますが、何人かの医者が指摘するように、老年性の神経疾患を患っていたという説の方が正しいと思います。

投稿: りせ | 2018年11月 4日 (日) 23:57

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