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2018年9月 2日 (日)

小松谷正林寺 平重盛と九条兼実

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

渋谷街道(渋谷通)を東に行くと、右手に正林(しょうりん)寺の山門が見えてきます。「正林寺」は山号を清涼山、院号を光明真言院という浄土宗の寺院で、かって小松谷御坊とよばれていました。

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平安時代末期、この地には平家の武将・平重盛(1138-1179)の別邸・小松殿がありました。その殿内には48の灯籠をともして念仏させたという灯籠堂があったといわれています。

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平重盛は清盛の長男で母は右近将監・高階基章(たかしなもとあき)の娘です。保元・平治の乱で父を助けて戦功を上げ、左近衛大将、正二位内大臣にまで出世しました。しかし、正室(後妻)の時子の子である宗盛や徳子とは異なり、有力な後ろ盾がありませんでした。

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また、妻は1177年に起きた平家打倒の謀議(鹿ケ谷事件)の首謀・藤原成親の妹だったため、平家一門では孤立していました。一方で、信仰心が篤く、灯籠堂では毎月14日、15日に美貌の女房らを堂に集めて融通大念仏会を行い、灯籠大臣とも呼ばれたそうです。

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平氏一門の中では最も後白河法皇に近く、清盛の後継者として期待されていました。しかし、清盛と後白河法皇の対立のなかで、父に先立ち病死してしまいました。墓は六波羅第にありましたが、平氏都落ちの際に焼き捨てられました。「寺務所」

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平家の没落後、鎌倉時代初めに九条兼実(かねざね)が小松殿の跡地に山荘を建てました。この山荘も小松殿と呼ばれたようです。(敷地内に「小松谷児童館」と「小松谷保育園」があります。)

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九条兼実(1149-1207)は、摂関家の藤原忠通の子で、1186年に摂政となり源頼朝と連携して朝廷政治の復興に努めました。五摂家の一つ九条家の祖で、かつ九条家から枝分かれした一条家と二条家の祖でもありました。(右の柵内が境内です。)

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兼実は、娘・任子を中宮として入内させ、1192年には頼朝を征夷大将軍に任じ、弟の慈円(1155-1225)を4度も天台座主とするなど権勢をふるいました。(境内は児童館と保育園の運動場になっています。)

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兼実は、南都復興事業を実施して東寺などの修理・造営を行い、朝廷の公事、行事を再興しました。しかしながら、兼実の門閥重視で故実先例に厳格な姿勢は、次第に他の公家の間に不満や反発を招くようになりました。(「阿弥陀堂(法王殿)」)

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頼朝も長女・大姫の入内のために丹後局に接近して兼実と距離を置くようになり、新たな治天の君(実権をもつ天皇、上皇)となった後鳥羽天皇との対立も深刻化しました。(阿弥陀堂には中央に阿弥陀如来、右脇侍に観音菩薩、左脇侍に勢至菩薩を祀ります。)

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中宮・任子が皇子を産まなかったことから、廷臣の大半から見切りをつけられ、1196年に関白の地位を追われました。その後、兼実は二度と政界に戻ることはありませんでした。(「紹隆(じょうりゅう)塔」、紹隆とは、先人の事業を継ぎさらに発展させることだそうです。)

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1201年12月10日には長年連れ添った妻に先立たれ、翌年正月27日、法然を戒師として出家して円証と号しました。また、期待をしていた長男を若くして亡くした心痛から法然の専修念仏に深く帰依したといわれています。(阿弥陀堂の前の石仏)

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兼実は法然上人のためにお堂(御房)を建て、上人を招いて法談を聴いたといわれています。また娘の玉日姫を法然の弟子・綽空(のちの親鸞)に嫁がせました。1207年に起こった専修念仏の弾圧では、法然が流罪の時も当御房で弟子と別れて出発しました。「本堂」

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法然の流罪を止めることはできませんでしたが、庇護するため配流地を自領の讃岐に変更しました。しかし、その直後に兼実は59歳で亡くなり、京都法性寺に葬られました。中央に本尊・圓光大師(法然上人)、右に九条兼実、左に聖光房弁長を祀ります。

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聖光房(鎮西上人)は法然の弟子で、浄土宗の第2祖といわれます。本堂は大師堂ともよばれ かつての九条家の河原御殿を移して改修したものです。法然の流罪の後、御坊は廃絶して室町時代の応仁の乱で小松殿も焼失しました。「鐘楼」

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江戸時代中期の1733年、九条家の援助により僧・恵(慧)空が北野真盛辻子にあった正林寺を当地に移して、小松谷御坊を小松谷正林寺として再興しました。翌年には九条家から堂舎の寄進を受けて、伽藍が整えられました。(境内の隅に墓地があります。)

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この「阿弥陀経石」には逸話があります。平重盛は一族繁栄のため宋国阿育王山に砂金を送り、鎌倉時代の1198年返礼として経石が送られてきました。しかし、重盛はすでになく、平家も滅亡していたため、経石は宗像大社宮司屋敷に置かれました。

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江戸時代前期の1648年、有志によって重盛ゆかりの当寺に経石が遷されたといわれています。

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正林寺は法然上人二十五霊跡第14番となっていて、御詠歌は「千年経る小松のもとをすみかにて 無量寿仏の迎えをぞ待つ」。(境内の西に小さな池とお堂があります。)

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コメント

寺の木の感じがいいですね。
他の寺の木と種類が違うのか、
建て方が違うのか、何かが違うのかもしれませんね。

投稿: munixyu | 2018年9月 2日 (日) 13:06

★munixyuさん こんばんは♪
このあたりは山に近く、もともと自生していた木かも知れませんね。

投稿: りせ | 2018年9月 5日 (水) 23:40

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