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2018年9月10日 (月)

豊国廟と秀吉没後の歴史

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の女坂の東端には豊国廟(ほうこくびょう)の二の鳥居と石段があります(一の鳥居は新日吉神宮の横です)。「豊国廟」は豊臣秀吉の墓所ですが、秀吉没後の歴史に翻弄され、様々な変遷を経てきました。

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安土桃山時代の1598年8月 豊臣秀吉は伏見城で63歳で死去しました。その死は当初、極秘扱いにされ、翌1599年4月遺言によって秀吉の遺骸は、阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬されました。

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山麓の太閤坦(たいこうだいら)には社殿の造営が進められました。秀吉の死は伏せられていたので、当初は方広寺の鎮守社とされていました。上の写真で、阿弥陀ヶ峰は背後の山で東山三十六峰の一つ、太閤坦はこのあたりの平地です。

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1600年4月17日、社殿が完成し後陽成天皇から秀吉に「正一位豊国乃大明神」の神階と神号が授けられ、豊国社が創建されました。神号は秀吉が望んでいた「新八幡」と異なりますが、その理由には諸説あります。(下は豊国廟の拝殿)

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4月18日正遷宮儀式が行われ、徳川家康や毛利輝元も参詣、社司は吉田神道の卜部兼従、祭祀の鑑は妙法院常胤法親王が務めました。大和四座による申楽も演じられました。当時の敷地は広大で、山上から山腹、現在の智積院や妙法院の境内に及びました。

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豊臣秀頼が社領4万石を寄進して境内の整備を進め、徳川家康も一万石の社領を寄進しました。この時、境内に56基の燈篭が建ち毎夜献灯されました。その後4月と8月の祭日には勅使が参向し、諸大名の参詣も絶えなかったといわれます。

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関ヶ原の戦いで西軍が敗北しても上の状況は変わらず、1604年秀吉の七回忌臨時祭が7日間にわたり盛大に行われました。見物人の列が三条大橋、五条大橋から連なり、人々は豊国踊り、風流歌舞を舞ったといいます。(秀吉の墓までは489段の石段です。)

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しかし、1615年大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると、事態は一変しました。家康の命により豊国廟、豊国社は破却されることになり、墓は方広寺裏に移されました。(今回は上まで登っていませんが、写真は後で紹介します。)

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「豊国大明神」の神号は奪われ、戒名「国泰院俊山雲龍大居士」を与えられ仏教により供養されることになりました。1619年新日吉神社が参道をふさぐように移築され、豊国廟はそこに遷されました。(太閤坦の南はプリンセスラインバスの駐車場です。)

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高台院(秀吉の正室ねね)の嘆願によって豊国社の建物の取り壊しは中止されましたが、その修理は禁じられました。以後300年間参道も塞がれて訪れる人もなく、社殿は朽ち果てたといわれています。(駐車場の南にちょっとした見晴らし台があります。)

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1868年明治天皇の意向により、明治新政府は新日吉神社の神楽殿を仮社殿として豊国社を再建しました。京都府で2番目に高い京セラ本社ビル(94.8m)が見えます。

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明治時代の1873年豊国社は別格官幣社となり、1880年社地を現在地(方広寺大仏殿旧地)に遷して豊国神社が創建され、妙法院に移されていた遺宝も返却されました。(大阪方面も見えますが、あべのハルカスは分かりませんでした。)

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1890年、秀吉配下の子孫らによって豊国会が結成され、旧福岡藩主の黒田長成侯爵(会長)や蜂須賀茂韶侯爵が中心となって、太閤坦に豊国廟の修復整備が進められました。

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1898年4月18日、秀吉300年忌に際して豊国会を中心として全国有志からの寄付金により廟宇が再建されました。阿弥陀ヶ峰山頂には伊東忠太設計の10mの巨大な石造五輪塔が建てられました。(ここから3枚は過去の写真です。唐門まで313段あります。)

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この工事のときに、土中から素焼きの壷に入った秀吉の遺骸とおぼしきものが発見され、丁重に再埋葬されたといいます。秀吉はいまなお阿弥陀ヶ峰山頂から京都の街を見守っていることになります。ただし、現在ではあまり見晴らしはよくありませんが。

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塞がっていた参道を開けるために、新日吉神社は参道南の現在地に移転され、新たに二の鳥居が建てられました。

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1904年誓願寺から、秀頼の子・国松丸、秀吉側室・松丸殿の五輪塔が豊国廟に遷されました。(拝殿の北にあります。)

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右は秀吉側室・松丸殿の五輪塔、左の小さいのは秀頼の子・国松丸の五輪塔で「漏世院雲山智西大童子」とあります。

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拝殿の南に「豊太閤三百年祭記念碑」があり、「振兵威於異域之水 施恩沢於率土之間」と刻んであります。この言葉は、後陽成天皇が秀吉に神号を与えたときの宣命(せんみょう、天皇の命令)の一部で、外国に武力をふるい恩恵を天下に施すという意味だそうです。

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裏面には、秀吉300回年忌を行う理由を、上の宣命と当時の世界情勢から説明しています。要約すると「現在世界の列国は武を競い民の奮起が必要である。このために秀吉公の偉勲を顕彰する」だそうです。当時の情勢が秀吉の朝鮮出兵と重なるのでしょう。

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このあたりは隠れた桜の名所です。蓮華しだれ桜の献木がありました。

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東山七条まで戻ってきました。渋谷街道の三嶋神社から始まった散策はこれでおしまいです。

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コメント

プリンセスラインバスは、
イギリスのバスみたいな色で、いいですね。
目立つのに、景観にうるさくない、いい色だと思います。

投稿: munixyu | 2018年9月10日 (月) 14:43

★munixyuさん こんばんは♪
新規に参入してきたバス会社なので、利用者にとっては選択枝が増えたのですが、既存のバス会社からは風当たりがきついそうです。

投稿: りせ | 2018年9月11日 (火) 00:58

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