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2018年9月13日 (木)

千本通を歩く 鞍馬口から寺之内へ

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

千本通の二つの寺院を訪れてきましたが、その他にも通りには様々な見どころがあります。上品蓮台寺はかって支院が12もあり、現在でもその付近は十二坊町と呼ばれています。上は北十二坊のお地蔵さん。

「十二坊交番」 あたかも上品蓮台寺の守衛のような場所にあります。ここから少し南の千本通東側に上品蓮台寺の(かっての)支院・普門院と大慈院の墓地があります。

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左の石標は「後藤祐乗之墓所」、右は「富士谷先生碣(いしぶみ)」とあり、ここに二人やその子孫らの墓があります。後藤祐乗(ゆうじょう、1440-1512)は室町時代に刀の装飾を行った金工家で、装剣金工の後藤四郎兵衛家の祖です。

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祐乗は将軍・足利義政に仕えていましたが、逆らって入獄しました。獄中で桃の種に彫ったお宮や猿が素晴らしくて赦免されたといわれます。以後は装剣金工家として召し抱えられ、出家して祐乗と号し、細緻な文様装飾は御所彫と称されました。

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富士谷成章(なりあきら、1738-1779)は御典医・皆川春洞の次男で儒者・皆川淇園の弟です。19歳で柳河藩・富士谷家の養子となり、京都の藩邸に住みました。兄に漢学、有栖川宮職仁親王に和歌を学び、経典、歴史、国学なども学びました。

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国文法の研究書として『挿頭抄(かざししょう)』や『脚結抄(あゆひしょう)』を著し、和歌の変遷書『六運略図』と『北辺七体七百首』は本居宣長に賞賛されました。成章は和歌の言語や文法から、その歴史が6つの時代(六運)に分類されると提唱しました。

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「歯形地蔵」(歯ノ地蔵尊) 千本通鞍馬口付近にあり、歯痛平癒の信仰があり、江戸時代の洛陽四十八願所地蔵めぐりの札所とも考えられています。かって紙屋川支流の小川があり、一部で北に流れていたので逆川と呼ばれました。この地蔵には伝承があります。

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地蔵尊の近くに夫婦が住んでおり、夫は評判の大工でした。ある雨の夕方、夫が若い娘と相合傘で歩いてきたのを見て、妻は逆上して夫につかみかかました。夫は驚いて逆川の橋たものとにある地蔵の陰に隠れていると、妻は夫の肩に噛みつきました。

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妻は間違って地蔵の肩を噛んで、歯が食い込んで離れなくなってしまいました。妻がどうなったかは諸説あります。その後この地蔵には歯形が残っていたので、歯形地蔵と呼ばれるようになり、やがて歯痛平癒の信仰が生まれたといいます。

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「京菓子舗・佐藤」 ここ千本鞍馬口で創業70余年の手焼きあられと和菓子の専門店です。あられは、素焼きやしょうゆ味、甘いあられからクッキーなど150種類以上に及ぶ品揃は京都一番といわれています。

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少し南に行くと寺之内通と交差し、このあたりに浄土宗の四つの寺院があります。「大幸寺」は元和4年(1618)に勤誉上人によって創建されました。江戸時代の半頃、そば振る舞いの行事が始まったといわれています。(下は寺之内通の西向き。)

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代々の住職が寺秘伝のそばを振る舞って邪気を払い、無病息災を祈念してきました。境内に立つ六尺の地蔵尊も、いつしか「蕎麦地蔵」と呼ばれるようになりました。地蔵尊の周りには一度も種をまいたことがないのに、毎年そばの花が咲くそうです。

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大阪の「そばよし」は大幸寺の秘伝の味を受け継いでいるそうです。大幸寺の前の南北の短い通りに、二つの寺院があります。

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「善福寺」 今出川通より南にある出水通にある同名の寺は出水七不思議で知られていますが、こちらの寺の情報はありません。

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お地蔵さんがの祠が塀に埋め込まれています。

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「無量寺」 山号は光明山。

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こちらが本堂だと思われ、阿弥陀如来を祀っています。

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「六地蔵」がありました。

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「四十八願所 無量寺」とあります。上で紹介した歯形地蔵(18番札所)と同じ洛陽四十八願所で、こちらは9番札所です。㊨は墓地なので、この石標はかって寺の外にあったと思われます。この願所は、江戸時代初めの慶長18年(1613)源光によって創始され、

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近世四十八願寺、西国四十八願所、京洛四十八願所、洛中四十八願寺など様々な名で呼ばれてる開運霊場巡りです。もう一度千本通に戻ります。

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千本通と寺之内通の交差点の南西に「称福寺」があります。このお寺もあまり情報がありませんが、北山中川に伝わる「中川京道音頭(京道恋道中)」に出てくる寺院です。この音頭は盆踊り唄として伝えられ、独特の節まわしで現在に謡い継がれています。

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江戸時代のある年の秋、宗蓮寺の若いお坊さんと里の若い娘が、北山杉の里を駆け落ちして、都に行く道すがらを唄った長い節です。「住みし久しき栢木町、返すその身は、すべり石」から始まり、「音に聞こえし五軒屋、こらは上品蓮台寺、」

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「松千本の花車 称福寺にてたずねたら、悪業はこなたに恋い焦がれ、行えも知らず旅の空 石の金輪で野で住むとても、なじょうにおとよを、見捨てはせぬぞ」 さらに二人は、千本通を下って伏見へと逃れ、五十石船で淀川をくだり、大坂へ逃れて行ったそうです。

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「京都市立乾隆(けんりゅう)小学校」 明治2年(1869)市民が設立した上京第一番組小学校として始まり、明治5年に私立上京第三校、明治9年に乾隆小学校と改称して現在に至ります。都はるみさんは卒業生だそうです。

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