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2018年8月11日 (土)

大雲院 夏の特別公開

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

「京の夏の旅」として特別公開されている大雲院・祇園閣に行ってきました。円山公園からねねの道を行くとT字路に突き当ります。その北西の一帯が大雲院です。昨日の記事の大雅堂跡の向かいになります。上は「総門」で東京の宮家から移築されました。

下は「圓山地蔵尊」 大雲院の移転および堂宇の建立が完成したことを祝って、「京都自治経済協議会」などから1990年に奉納されました。ここで右に曲がります。

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「大雲院」は山号を龍池山という浄土宗系単立寺院で、貞安寺(じょうあんじ)とも呼ばれます。下は四条寺町から移築された「南門」で、特別公開の拝観受付が設けられています。

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大雲院は、安土桃山時代の1587年、正親町(おおぎまち)天皇の勅命によって、聖誉貞安(せいよていあん)上人が開山となり、本能寺の変(1582年)で亡くなった織田信長、信忠父子の菩提を弔うために建立されました。

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当初は信忠が自刃した二条新御所に創建され、知恩院に属しました。信忠の法名「大雲院殿三品羽仙厳大居士」にちなんで龍池山貞安寺大雲院と名付けられました。ちなみに既に豊臣秀吉が信長の法名にちなんで大徳寺塔頭・総見院を建立していました。

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1590年に寺域が狭いとして豊臣秀吉が寺町四条に移し、その後後陽成天皇の勅願寺となり、信長、信忠の石塔が建立されました。

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慶長年間(1596-1615)には日向国佐土原(さどわら)城主の島津以久(もしひさ)が帰依し、以後毎年米100石を寄進したそうです。境内の南東に「佐土原藩戦没招魂塚」があります。佐土原藩は薩摩藩と支藩に近い関係だったといわれています。

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南東の隅にある「鐘楼」 梵鐘には室町時代の延徳2年(1490)の銘があり、かっては祇園感神院(八坂神社)にありました。明治初年の神仏分離令後の廃仏毀釈のさ中(1870年)、島津家が佐土原藩士の菩提を弔うために当寺に寄進しました。

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大雲院は天明の大火(1788年)で焼失、1792年に再建。幕末の禁門の変(1864年)では、島津藩兵が類焼を防いだそうです。鐘楼の奥にある鎮守社の「弁財天」、四条寺町にあったときの鎮守社は、その地に現存する「火除天満宮」です。

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1973年、髙島屋京都店が増築される際に、大雲院は現在地に移転しました。この地は大倉財閥で知られる大倉家の別邸・真葛荘(まくずそう)があり、当時は高島屋の所有になっていました。下はTOPの写真の総門で、江戸時代の建立だそうです。

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大倉財閥の創設者・大倉喜八郎(1837-1928)は、越後に生まれ、明治維新前後に銃砲販売や新政府の御用商人として軍需品を商い、後に日本の近代化に伴って輸送、建築・土木、炭鉱・鉱山・製鉄、食品、化学、貿易など広い分野に手を広げました。「平和観音」

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さらに、東京電灯(後の東京電力)、帝国ホテル、帝国劇場、鹿鳴館、大倉商業学校(後の東京経済大学)などを創設、現在もホテルオークラや大成建設などの関連企業を抱えています。「本堂」は1973年に建立され、平安・鎌倉の折衷様式のコンクリート製2階建です。

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本堂の右手(北)に寺院の他の建物がありますが、こちらは公開されていません。

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拝観順路に従って本堂の2階に上がります。内部は撮影できませんので、以下の何枚かは受付で頂いたパンフレットからの写真です。

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2階の中央に本尊・丈六の阿弥陀如来坐像(約2.4m)が安置されています。

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木像の内部には別の阿弥陀如来立像が収められています。室町から桃山時代にかけての作で、大雲院創建時の本尊とも考えられているそうです。また、本尊の左に織田信忠像が安置されていますが、それには次のような理由があります。

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本能寺の変のとき、信忠は秀吉への援軍に向かうべく京都の妙覚寺に滞在していました。明智光秀の襲撃の知らせをうけ、本能寺に駆け付けますが既に信長は自刃していました。そこで、擁立していた誠仁(さねひと)親王が住む二条新御所に向かいます。

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誠仁親王を脱出させると、信忠はわずかな軍兵とともに篭城するも明智勢の大軍に包囲されて自害してしまいました。誠仁親王は大雲寺の創建を命じた正親町天皇の嫡男で、天皇は信忠最期の地を貞安上人に与えたのです。

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その後誠仁親王は若くして亡くなり即位することはありませんでしたが、信長が築いた安土城には「御幸の間」が設置されていて、誠仁親王の即位を想定したものと考えられています。(本堂の外縁を回って西に行きます。下は南門とねねの道。)

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本堂の西に「祇園閣」があります。昭和3年(1928)に天皇即位の御大典記念に大倉喜八郎の別邸に建立されました。喜八郎は常に祇園祭の鉾を見てほしい、あるいは京都に新しい名所を造るという意図があったといわれています。

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設計は伊東忠太(1867-1954)で、寺院の楼閣建築を模範にしたコンクリート製3階建。欄干や扉は銅製、屋根も銅板葺で、金閣、銀閣についで「銅閣」を造ろうとしたともいわれています。大雲院が移転して来てからは宗教施設となり一階に阿弥陀像が安置されています。

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内部には釈迦説法図や千手観音図、世界遺産の中国莫高窟(ばっこうくつ)の壁画の模写などが描かれています。内部だけでなく、外の景色も撮影できません。下はパンフレットの写真。

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次に、本堂から渡り廊下でつながっている「龍池会館」の宝物展示場に向かいます。こちらも内部は撮影できません。開山の貞安上人は、信長の命により、安土・浄厳院(じょうごん)での宗論に参加し、霊誉玉念らと法華経の日晄ら3名の僧侶を論破しました。

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それによって信長の信任を得て、軍配団扇や朱印の感状などを賜りました。その団扇も展示されていて、上の上人像(江戸時代作)にも描かれています。この後外に出ると、祇園閣が見えました。鉾頭は鶴で、喜八郎の幼名「鶴吉」にちなんでいるそうです。

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境内の西にある墓地には信長父子や石川五右衛門らが眠っています。

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「織田信長・信忠の慰霊碑」 右と左に、それぞれ総見院殿、大雲院殿から始まる信長と信忠の法名が刻まれています。

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こちらは「石川五右衛門の墓」 五右衛門は1594年に秀吉によって捕らえられ、処刑前の市中引き回しで寺町四条にあった大雲院の前を通り、住職の貞安に供養を頼んだそうです。その約束を守って建てた墓がこちらに遷されました。

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コメント

お寺も石仏も緑も、みんな息をしていないようですね。
真夏の暑さが伝わってきます。

投稿: munixyu | 2018年8月11日 (土) 13:32

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