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2018年7月 9日 (月)

智積院 桔梗と紫陽花と京都のニュース

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

大雨の前に智積院を訪れて境内の桔梗と紫陽花を見て歩きました。以下では、智積院の桔梗と紫陽花にまつわる話と、最近の京都のニュース(大雨被害を含む)をお届けします。七条通の突き当りにあるのは「総門」で、上は通常の入口となる「冠木(かんき)門」です。

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「智積院」は、元は紀州(和歌山)の根来山(ねごろやま)大伝法院の塔頭のひとつでした。安土桃山時代、巨大な勢力をもった真言宗・根来山は豊臣秀吉と対立、1585年に秀吉の軍勢によりその堂塔のほとんどが焼失してしまいました。

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当時の智積院の住職・玄宥(げんゆう)は、寺院を復興しようとするも秀吉に阻まれ、十数年が過ぎることになりました。(参道の両側には桔梗が咲いています。)

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秀吉没後の1598年玄宥は京都東山で智積院の再興を始めました。そして、関ヶ原の戦いを制した徳川家康は、翌年の1601年玄宥に(秀吉を祀った)豊国神社に附属する寺院の土地と建物を与え、ようやく智積院は復興を果たしました。

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その後大坂夏の陣で豊臣家が滅ぶと、智積院は隣接する祥雲寺(祥雲禅寺)の土地と建物を与えられ、さらに規模を拡大することになりました。(上の写真は再建された講堂ですが、元の建物は祥雲寺の法堂でした。)

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祥雲寺は、豊臣秀吉が3歳で死去した子・鶴丸の菩提を弔うために、1591年に加藤清正に命じて建立した禅寺でした。贅を尽くして建てさせた寺は、桃山らしい絢爛豪華さで知られ「都一番の華やかさ」と評判でしたが、後の1682年に焼失してしましました。

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桔梗は加藤清正の家紋でしたが、建設の功績から祥雲寺の寺紋となりました。そして、智積院の主要な建物が当時の祥雲寺のものだったことから、智積院の寺紋も桔梗となったと考えられています。(玄宥僧正の像)

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祥雲寺を譲られたときの住職は第3世・日誉能化でした。その報せが二条城で伝えられた際に同席していた金地院崇伝(以心崇伝)は、日誉に対して「誠に羨ましい。あなたは果報者だ。」と語ったといわれています。

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参道の正面は1975年に弘法大師生誕1200年を記念して再建された「金堂」です。真言宗智山派総本山・智積院の中心的な建物で、本尊・大日如来を安置しています。

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以前の建物は桂昌院(徳川綱吉の生母)より与えられた金千両を基に、学侶からの寄付金を資金として1705年に建立されました。しかし、明治15年(1882)に火災により焼失してしまいました。

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金堂の左の石段の上にある「大師堂」は江戸時代の1789年に落成、弘法大師空海の尊像を安置しています。ただし、6月16日から8月11日まで智山専修学院生(修行僧)の加行(けぎょう)が行われるため、近づくことができません。前には紫陽花が咲いています。

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智積院はその後、何度か火災に遭いつつも、江戸時代前期には弘法大師空海以来伝わる真言密教の正当な教えを伝えている寺院として隆盛し、「学山智山」として数多くの僧侶たちが集まる大規模な寺院として発展していきました。(金堂の右から奥に行きます。)

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「境内整備事業記念碑」 金堂の裏の斜面には、平成3年に整備された「学侶墓地」があり、それを取り巻くように紫陽花が植えられています。

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当時の智積院は学問を尊重する教学の府として名を博し、今で言う「大学」のような存在でした。仏教は勿論、天文学や地学など理系の学問を含め、幅広い分野を学ぶことができました。

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そのため、他の宗派や一般の人々も集まるようになり、800から1000人以上の学侶(仏教に関する学問や研究を行う僧侶)がこの寺で学び、江戸時代中期の元禄・宝永年間には1600人以上が所属しました。

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当時は智山派の僧侶になるため20年間の修行をする必要があり、そのうち4年間は智積院で学びました。学侶たちの「朝食の粥をすする音が七条大橋まで聞こえてきた」といわれています。

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その頃、智積院で修業し志し半ばで亡くなった方々は裏山の地蔵山に葬られました。その墓石群をこの地に移転して聖域として整備したのが現在の学侶墓地です。金堂と反対側の斜面に墓地が見えます。

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智積院では、諸堂参拝の折にこの墓地に参拝して学侶らの霊を弔うとともに、自らの修行成就を祈念しているそうです。

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ところで、昨日の記事で大雨の被害について書きましたが、八幡市の国名勝の「松花堂庭園」では、先日の地震で屋根瓦が落ちた松花堂書院内の蔵で6日に雨漏りが見つかり、内部の壁や柱、床がぬれました。

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紅葉の名所として知られる神應寺(八幡市男山の中腹)では6日朝、約30mにわたり参道の斜面が崩れているのが分かりました。(墓地の横の石段を上ります。)

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祇園祭に関するニュースを二つ。7月2日、長刀鉾の長刀(長刀鉾保存会所蔵)を調査していた京都国立博物館から、刀身に刻まれた銘からその来歴や作者が分かったと発表がありました。

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現在の長刀は2代目で「平安城住三条長吉作」「去年日蓮衆退治~」の文字が刀身に入っていました。室町時代に比叡山宗徒が日蓮宗寺院を襲撃した「天文法華の乱」の混乱で略奪され、その後に手に入れた近江の刀鍛冶が八坂神社に奉納して戻ったそうです。

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ちなみに、初代は名工 「三条小鍛冶宗近」作とされていますが、所在が不明になっています。墓地の上に「僧侶納骨供養塔」と「檀信徒納骨塔」があります。

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少し前の6月21日のことですが、祇園祭山鉾連合会は祇園祭の山鉾巡行に江戸時代まで参加し、現在巡行復帰を目指す「鷹山(たかやま)」の基本設計案を発表しました。

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鷹山は、中京区衣棚(ころものたな)町にあり、後祭でくじ取らずの大きな曳山でした。1826年の暴風雨で損壊し、翌年から巡行に参加しない「休み山」となりました。さらに1864年の蛤御門の変の大火で山の本体や装飾品のほとんどが焼失してしまいました。

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近年、巡行復帰への機運が高まり、2014年に囃子(はやし)方が復活、15年には鷹山保存会が発足、16年には山鉾連合会の準会員となりました。ここ数年、宵山には町内に鷹山の出店(テント)が出て授与品が並んでいました。

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江戸時代の文化文政期(1804-30)の姿に復元、大屋根を持ち、ご神体は鷹狩りをする3体の人形だそうです。来年から3年間は山の巡行の代わりに唐櫃(からびつ、木箱)を担いで歩く唐櫃巡行に参加し、22年の順行から復帰したいそうです。

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数年前に復帰した大船鉾のような大手のスポンサーはいないようで、鷹山保存会では広く寄付金(1口千円)を募集しています。

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コメント

桔梗は、いつ見てもいい花ですよね。
上品です。
紫陽花は、紫陽花畑みたいに咲いてますね。
凄い数だと思います。
これだけあれば管理も大変でしょうね。

投稿: munixyu | 2018年7月 9日 (月) 19:06

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