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2018年7月10日 (火)

同聚院と退耕庵(東福寺塔頭)

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日から東福寺の天得院、芬陀院、光明院を記事にしてきましたが、今日は最後に訪れた2つの塔頭です。最初は平安時代に絶大な権勢を誇った藤原道長ゆかり仏像を安置する同聚院です。

東福寺の西の通りを北に行き、臥雲橋を渡ると左(西)に同聚院の山門があります。山門を入った正面は五大堂です(TOPの写真)。

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東福寺一帯は、平安時代中期の924年頃に藤原忠平が法性寺(ほっしょうじ)を建立した場所でした。忠平は、藤原氏の摂関政治を始めた基経の四男で、兄・時平の早世後に朝廷の政治を司り、延喜の治と呼ばれる政治改革を行い、長く政権の座にありました。

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その後の道長の時代に藤原氏の権勢は最大となり、1006年には道長が「40歳の賀」にあたって法性寺の境内に五大明王を安置する五大堂を造営しました。当時は40歳から10年毎に長寿を祝う習わしがありました。(山門を入って左に地蔵尊が祀られています。)

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その後も藤原氏は法性寺の造営を続けましたが、鎌倉時代初期には寺は衰微しました。その頃、藤原北家嫡流の近衛基通が源頼朝追討宣旨の責により失脚、代わって叔父の九条兼実が摂政となり、以後、藤原摂関家は近衛家と九条家に分かれました。(手水舎)

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兼実は広大な別荘・月輪殿を造営し、敷地内に阿弥陀堂を建立しました。兼実自らも月輪殿と呼ばれました。(毘沙門天)

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兼実の孫・道家は、藤原氏の氏寺・法性寺の跡地に、祖父にならって1236年に仏殿の建立を始め、19年の歳月を費やして、1255年に東福寺が完成しました。(鎮守社)

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さらに時代は下り、室町時代の1444年東福寺第129世・琴江令薫(きんこうれいこん)が、この地、すなわち道長が建立した五大堂の跡地に東福寺塔頭の同聚院を建立しました。(左が五大堂、正面が授与所、奥が庫裡。)

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かっての五大明王のうち、中尊不動明王坐像(重文)だけが幾多の災害をこえて現存し、本寺の現五大堂にまつられています。

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像は仏師定朝の父・康尚の作で、像高265cmの巨大なものです。忿怒(ふんぬ)相の中にも優美さをたたえた藤原美術の代表彫刻の一であるとされています。「じゅうまん不動」とも称され、毎年2月2日に「じゅうまん」の字を書いたお守りが施与されます。

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「じゅうまん」は、土地の守護を表す「土力」、または十万の眷属(けんぞく、従者)を従える「十万」の二通りの2字を一字にしたといわれ、火災除けをはじめ除災のご利益がある不動として信仰されています。

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山門を出て、さらに北にある退耕庵を訪れます。この寺の拝観には予約が必要なので、山門付近だけを見てきました。

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東福寺北西の仁王門の近くに退耕庵があります。「退耕庵」は室町時代初めの1346年、東福寺第43世・性海霊見(しょうかいれいけん)によって創建。応仁の乱により一時荒廃しましたが、1599年安国寺恵瓊(あんこくじえけい)によって再興されました。

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幕末の鳥羽・伏見の戦いの際、東福寺に長州藩の陣が置かれた縁で、退耕庵は鳥羽・伏見の戦いの戦死者の菩提寺となっています。

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茶室「作夢軒(さくむけん)」は、再興寺に恵瓊によって建てられ、豊臣秀吉の没後、ここで、恵瓊、石田三成、宇喜多秀家らが、関が原の戦いの謀議を行ったと伝えられています。石碑の右にはこの茶室名と小野小町遺跡とあります。

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かって東山の渋谷街道に、小野寺という小野小町ゆかりの寺がありました。江戸時代には、洛陽四十八願所地蔵めぐり札所となり、札所本尊は「玉章(たまずさ)地蔵」と呼ばれていました。明治7年(1874)廃寺となり、玉章地蔵、扁額、井筒などが当寺に遷されました。

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玉章地蔵は、右手に錫状、左手に宝珠を載せ、良縁を結び、悪縁を絶つとの信仰を集めています。玉章とは美しい詩文、恋文のことで、老いた小町は自ら像を作り、送られてきた恋文を像内に納めたともいわれます。(地蔵堂の中は撮影禁止です。)

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「小野小町百歳井」 小町の生没年は不詳ですが、長生きしたとはいわれています。井戸に映った自らの姿を見て「面影の 変わらで年の つもれかし たとえ命に 限りあるとも」と詠んだといわれています。

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中に入っていませんが、枯山水庭園の南庭は「真隠庭」とよばれ、開山・性海霊見の作庭だそうです。下は京の冬の旅で特別公開されたときのポスターです。

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コメント

お寺に陣を張ることもあったのですね。
何もない所に張るよりは、確かに安全で
戦いやすいかもしれませんね。
どこに陣を張るのかも、勝敗に大きく影響しそうですよね。

投稿: munixyu | 2018年7月10日 (火) 18:55

★munixyuさん こんばんは♪
確かにお寺に陣を張ることが多かったようです。応仁の乱では、相手方の陣にされる前にお寺を焼き払ったので、市内のほとんどの寺が焼失してしまいました。

投稿: りせ | 2018年7月18日 (水) 01:23

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