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2018年7月18日 (水)

祇園祭2018 前祭山鉾巡行 前半

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日も猛暑でしたが祇園祭の山鉾巡行(前祭)を見てきました。ここ数年同じ場所の河原町御池交差点からの撮影です。昨年の記事では「動く美術館」とも呼ばれる山鉾の懸装品を紹介しましたので、今年はそれぞれの山鉾の歴史やご神体の由来を中心にします。

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「長刀鉾」の名の由来となった鉾先の大長刀は、かって平安時代の刀工・三条小鍛冶宗近の作が用いられていました。宗近が娘の病気平癒を祈願して八坂神社に奉納したもので、鎌倉時代にある武人が使用すると、何かと不思議なことが起こり、返納したとされます。

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その後、初代の長刀は不明となり、現在は大永2年(1522)三条長吉作の長刀を保存、複製品を鉾頭にしています。先日の調査から、室町時代の「天文法華の乱」の混乱で略奪され、その後に手に入れた近江の刀鍛冶が八坂神社に奉納して戻ったそうです。

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「蟷螂山(とうろうやま)」 屋根に乗っているカマキリのからくり人形がご神体です。「カマキリが自分の斧で大きな車のわだちに立ち向かう」という中国の故事にちなんでいます。 自分の力を顧みず、無謀な戦いを挑むという意味です。

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山の起源は。南北朝時代、足利義詮軍に挑んで戦死した当町在住の公卿・四条隆資(1292~1352)の戦いぶりが「蟷螂の斧」のようであったことからです。

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当町居住の渡来人・陳外郎大年宗奇が卿の死後25年目に、四条家の御所車に蟷螂を乗せて巡行したのがはじまりといわれています。

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「霰(あられ)天神山」 錦小路通室町西入にあるので「錦天神山」ともいわれます。室町時代後期(戦国時代)の永正年間(1504~1520)京都に大火のあったとき、急に霰が降り猛火はたちまちに消えたそうです。

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そのとき1寸2分(約3.6cm)の天神像(菅原道真像)が降ってきたのでこれを祀ったのがこの山の起こりといわれます。その後、何度も京都は大火に遭いましたがこの山は焼けずに残ったので「火除天神山」とも呼ばれています。、

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山の上には欄縁にそって朱塗り極彩色の廻廊をめぐらし、中央に唐破風春日造の神殿を安置しています。道真にちなんで赤梅もあるようです。

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「油天神山」 古くから町内(風早町)に祀られていた天神を勧請して作られた山で、油小路綾小路下ルにあるところから、この名で呼ばれます。勧請の日がちょうど丑の日にあたっていたので「牛天神山」とも呼ばれます。

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山は正面に朱の鳥居を立て金箔置の社殿にはもと風早家に伝来し、後に町内の祠に祀っていた寛永7年(1630)作の天神像を安置しています。真木の松の他に紅梅の枝をはなやかに立て鈴をつけています。

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「函谷鉾(かんこほこ)」 中国の戦国時代(前403~221)斉の孟嘗君は、秦の昭王に招かれ、宰相に重用されました。しかし、讒言によって咸陽を脱出して、函谷関まで逃げましたが、関の門は鶏が鳴かなければ開きません。

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そこで、家来に鶏の鳴声をまねさせて関の門を開かせ、函谷関を脱出できたという故事にちなんだ鉾です。

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鉾頭(右)の三日月と山は、夜中の山並みを表し、真木の上端(左)には孟嘗君、その下に雌雄の鶏が祀られています(鶏は見えません)。

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「孟宗山」 山に飾るご神体(人形)は中国の史話二十四孝から取材。孟宗という人物が、病気の母が欲しがる筍を真冬の雪の中探し回り、ついに掘り当てて母を喜ばせたという話にちなんでいます。

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そのため、御神木の松や粽には、雪を模した綿が付けられています。「筍山」ともいいます。

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「綾傘鉾 (あやかさほこ)」 山鉾の非常に古い形態を残している傘鉾の一つで、大きな傘と棒振り囃子の行列として巡行していました。江戸時代の天保5年(1834)、一時小型の鉾に改造されますが、元治元年の大火で、その大部分を焼失してしまいました。

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その後、明治12年から17年まで原型の徒歩ばやしの形で巡行したことがあります。棒振り囃子は、赤熊(しゃぐま)をかぶり、棒をもった者が、鉦、太鼓、笛に合わせて踊るもので、壬生村の人々により奉仕されてきました。

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町内の人々の綾傘鉾復興の努力が実り、昭和54年から山鉾巡行に復帰することになりました。

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「白楽天山」 唐の詩人白楽天が道林禅師に仏法の大意を問う場面を表現しています。

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道林禅師は、緞子地の紫衣を着け、藍色羅紗の帽子をかぶり手に数珠と払子を持ち松の枝の上に座し、白楽天は唐織白地狩衣の衣裳に唐冠をかぶり笏を持って立っています。

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「鶏鉾」 昔、中国の唐堯の時代に天下がよく治まり諫鼓(かんこ)も用がなく苔が生え鶏が宿ったという故事にちなんでいます。諫鼓は中国の伝説上の聖天子が、君主に諫言をしようとする者に打ち鳴らさせるために、朝廷の門前に設けたという「いさめの鼓」です。

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鉾頭の三角形の中の円形は鶏卵が諫鼓の中にあることを示し、鶏鉾の象徴となっています。真木のなかほどの「天王座」には航海の神といわれる住吉明神を祀っていますが、その由来は不明です。

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ちなみに、善政が続くことを「諫鼓鳥が鳴く」ともいいますが、閑散としている意味の「閑古鳥が鳴く」とは関係がないようです。

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「太子山」 聖徳太子が四天王寺建立にあたって、自ら山中に入って良材を求めたという伝承にもとづいた山です。

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他の山がいずれも松を立てているのに対してこの山だけは真木に杉を立て、その樹に小さな如意輪観音像を奉戴しています。太子は少年像で右手に斧、左手に衵扇を持っています。

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「伯牙山(はくがやま)」 中国の周時代、琴の名人伯牙とその友人鍾子期との物語の一場面です。伯牙が鍾子期の死を聞いて、自らの琴の絃を断ったという故事をあらわしています。

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祇園祭は、都で疫病が流行し、富士山の大噴火や陸奥の貞観地震などの天変地異が続いた平安時代中期、それらの犠牲者や元凶と考えられていた疫病神を鎮めるために始められた祇園御霊会が起源です。応仁の乱を除いて1000年以上続いています。

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祇園御霊会に付随して町民による山鉾巡行が室町時代に始まり、応仁の乱の時期と、第2次大戦中1回、阪急地下工事で巡行が不可能となった1回を除いて、台風や荒天でも続けられています。

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コメント

ゆっくりとした京都の夏。
暑いのに涼しい感じがして、お祭りって本当に不思議ですよね。

投稿: munixyu | 2018年7月18日 (水) 10:24

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