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2018年6月 2日 (土)

勧修寺 氷室池と花菖蒲

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

雨も止んで花菖蒲が見頃とのことで、昨日勧修寺に行ってきました。上の写真の長い築地塀には格式を示す5本の定規線が入っています。向かいの桜の若木がかなり大きくなってきました。

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「勧修寺(かじゅうじ)」は、山科・来栖野(くるすの)にあり、山号を亀甲山という真言宗山階(やましな)派の大本山です。上の山門を入ると「大玄関」があります。

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平安時代前期の900年、醍醐天皇が生母の藤原胤子(いんし)追善のために、東大寺の承俊律師を開山に迎えて創建したのが始まりです。(庭園の拝観は大玄関の横にある中門から入ります。)

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中門を入ると右に「宸殿」があります。江戸時代の1697年明正院(めいしょういん、明正上皇)の旧御所から移築された建物で京都市文化財。

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勧修寺という名は、醍醐天皇の祖父・藤原高藤(たかふじ)の諡号からとったものです。(宸殿の横を回って裏に行きます。)

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鎌倉時代に後伏見天皇の第7皇子の寛胤(かんいん)法親王が15世住持となり、それ以来近代まで門跡寺院となりました。

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宸殿の裏手に行くと「書院」があります。江戸時代前期の1686年京都御所の建物の部材により再建され、重要文化財に指定されています。

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書院の左前にある「臥竜の老梅」 樹齢300年といわれる白梅で、江戸時代に京都御所から移植されたといいます。親は根が残り、子は枯れ木、孫は今も花を咲かせて3代が一つになった木だそうです。

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生垣の中に「勧修寺型灯籠」があります。水戸光圀が寄進したと伝えられるちょっとユーモラスな形の雪見燈籠です。

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「本堂」(市指定文化財)は、江戸時代に霊元天皇の仮内侍所を移築したもので、醍醐天皇の等身大といわれる千手観音立像を安置しています。左に半夏生(はんげしょう)の苗があります。

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本堂の向かいの林の中に弘法大師像があります。その周りに四国八十八箇寺の霊石が並べられていて、それらを踏んで歩けば2分で霊場周りができるそうです。

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向こうに「五大堂」があり、前に護摩木が積んであります。丸い踏み石は左は本堂へ、右は池の前の芝生に向かいます。

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「氷室(ひむろ)池」の前の芝生に来ました。ここは、「勧修寺氷室園」といい、池を中心とした池泉回遊式庭園で京都市指定名勝になっています。この庭園は平安時代の遺構とされ、京都では最も古い形式だそうです。

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中央の高い木は「千年杉」と呼ばれ、京都の庭園中最も高い杉だそうです。水鳥がとまると狩野探幽の絵のようだと看板に書いてありました。杉は中の島にあり、アオサギの巣があります。

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池の名となっている「氷室」とは、冬に得られた氷や雪を貯蔵する施設のことで、宮中では夏に食品の貯蔵や氷菓子として毎日多量の氷を消費したそうです。

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池のほとりに花菖蒲が咲いていました。

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平安時代中期の『延喜式』には、都の周辺に10ヶ所の氷室が記載されていて、その中に栗栖野氷室という名があります。このあたりも栗栖野と呼ばれていますが、この氷室は鷹峯の近くの栗栖野にあります。(池には3つの中の島があります。)

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しかし、平安時代にはこちらも寒かったようで、池に張った氷を1月2日に宮中に献上して、その厚さによって五穀豊穣を占ったといわれています。

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向うの「観音堂」は昭和に建てられたものです。

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美しい観音菩薩像を祀っています。

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ところで、『今昔物語集』に勧修寺の創建にまつわる逸話が書かれています。平安時代前期の857年、藤原高藤が南山階(山科)に鷹狩に行ったとき、栗栖野で雷雨に見舞われました。

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雨宿りに立ち寄った大領(たいりょう、郡司)の宮道弥益(みやじいやます)の屋敷で一夜を過ごすことになりました。高藤は、酒や肴を運んできた弥益の美しい娘の列子(たまこ)に惹かれ契りを結びました。(池には睡蓮も少し咲いていました。)

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このとき高藤は15-16歳、列子はもっと若かったといいます。高藤は形見の太刀だけを残して屋敷を去りました。

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父の良門に狩を禁じられた高藤は、6年後に父が亡くなると弥益の屋敷を再び訪れます。すると、列子のかたわらに幼い娘がいて、高藤の子・胤子でした。列子は、高藤との再会を待ちわびていたのです。

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母子は高藤とともに都で暮らすことになりました。後に胤子は宇多天皇の妃となり、醍醐天皇が生まれ、高藤だけでなく宮道家も官位が上がり栄えたそうです。列子(たまこ)の話は「玉の輿」という言葉のルーツになったともいわれています(異説もあります)。

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醍醐天皇は亡くなった母の胤子を弔うために、祖母の列子が生まれ育った弥益の家を寺院とし、祖父・高藤の諡号から勧修寺と名付けたのです。

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ちなみに、胤子の弟・藤原定方は百人一首で知られた歌人で、そのひ孫が紫式部です。高藤と列子が結ばれなかったら、紫式部や源氏物語も生まれなかったといえます。

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コメント

初夏の終わりを感じる、綺麗な花ですね。
花菖蒲からシャガの花。
こういう種類の花は夏の静けさを感じて、いいですよね。

投稿: munixyu | 2018年6月 2日 (土) 11:36

★munixyuさん こんばんは♪
今年はいろんな花の開花が例年より早くなっているようです。ところが例年と変わらない花もあって、見に行くのが早すぎた場合も何度もあります。できるだけ、季節の花の見頃を写したいのですが、難しいですね。

投稿: りせ | 2018年6月 3日 (日) 00:48

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