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2018年6月22日 (金)

興雲庵と陀枳尼天堂 建仁寺北西の塔頭たち

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

一昨日の記事の建仁寺・禅居庵を出て、境内の北西にある塔頭を訪ねました。そのうち、興雲庵の境内にある陀枳尼天堂だけが自由に拝観できます。境内の西にある道を北に歩くと、左(西)の塀の中に塔頭があります。

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「久昌院」は、江戸時代初めの慶長13年(1608)美濃加納(岐阜市)城主の奥平美作守(みまさかのかみ)信昌(のぶまさ)が、三江紹益(さんこうじょうえき、1572-1650)を開基として創建した奥平家の菩提寺です。

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昨年の京の冬の旅で特別公開されたときの写真を1枚(本堂前庭)。

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「堆雲軒」 境内の南東にある塔頭・霊洞院(現在は僧堂)の正仲が同院の隠退所として貞和2年(1346)に創建。あらためて高山慈照を追請して開基としました。室町時代の天文法華の乱(1536年)によって焼失、延宝8年(1680)に再建されました。

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境内の北西の一角に陀枳尼天堂・興雲庵があります。その手前を左に行くと建仁寺の西門ですが、まっすぐ北に歩きます。、

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直ぐに門(南門)があり、ここから陀枳尼天堂に行けますが、さらに北に歩きます。

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こちらが興雲庵の山門のようです。「興雲庵」は初め臥雲庵と号した建仁寺の塔頭で、開基は鎌倉時代の石梁仁恭(せきりょうにんきょう、1266-1335)です。ここから残りの3つの塔頭を見たあと、再び興雲庵に戻ります。


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建仁寺の北2筋目の通りに面して「常光院」があります。開基は温仲宗純(-1511)。1604年三江紹益に帰依した木下茂叔が堂舍を治し、1493年に今熊野から建仁寺に移した福聚院を合し、明治5年には春松軒も吸収しました。木下家定(北政所の兄)の墓があります。

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「清住院」 開基は蘭洲良芳(りょうほう)(1305-84)。天文年間の火災で焼失。1653年に茂源紹柏が再興。蘭州は1361年、将軍足利義詮が後光厳天皇を奉じて近江に逃れたとき、その四歳の嗣子・義満を衣中に隠して播磨の赤松則祐にまで届けたことで知られます。

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「正伝永源院」 宋から渡来した義翁紹仁(ぎおうじょうにん)(-1281)が開いた正伝院に始まり、天文以降荒廃。1618年に織田長益(有楽斎)が再建。明治6年、旧永源庵の地に移されたときに、現在の寺号となりました。(建仁寺の北の通りに面しています。)

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正伝永源院の斜め向かいに鳥居があり、「陀枳尼尊天」の石標が建っています(TOPの写真)。鳥居をくぐると興雲庵の北門があります。

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興雲庵の開基・石梁仁恭は台州(中国浙江省)生まれの僧で、一山一寧(いっさんいちねい)の甥で、1299年に一山に従い来日しました。一山らは2度の元寇の失敗の後、元から貢物の催促の国使として日本に派遣されたのです。

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一山らは一時幽閉されましたが日本の僧の評判が高く、執権北条貞時は一山に帰依して建長寺の住持となりました。後に後宇多法皇によって京都に招かれ南禅寺3世となり、南禅院に葬られました。(下は興雲庵の玄関で、本堂は左の塀の中にあります。)

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一方、石梁は信濃の慈雲寺や慈寿寺、筑前の聖福寺、鎌倉の寿福寺などの住持を務め、京都に招かれ建仁寺22世住持となりました。没後、慈照慧灯禅師の諡号を贈られました。(こちらは庫裡の玄関。)

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興雲庵も、天文法華の乱(1536年)で焼失、三江紹益によって再興、建物は正保年間(1644-48)に再建されました。天明の大火(1788年)でも類焼しましたが、後に再建されました。

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境内の南に「陀枳尼天堂」があります。中興の祖・三江紹益の両親が陀枳尼天に深く帰依し、三江も生涯の守護神とし、興雲庵の鎮守として祀りました。この神は、元はダーキニーと呼ばれ、裸身で虚空を駆け、人肉を食べるというインドの魔女でした

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ヒンドゥー教やインド仏教に取り入れられ、中国仏教を経て日本に平安初期に真言密教とともに伝えられました。伝来した当初は、奪精鬼として閻魔天に仕え、半裸で血器や短刀、屍肉を手にする魔女の姿でした。

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時代が下ると、その形は半裸形から白狐にまたがる天女の形へと変化し、陀枳尼天と呼ばれるようになりました。しかし、この女神は一度祀ると最後までその信仰を続けなければ、自分の命や運命に厳しい罰が下るという難しい一面がありました。

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やがて、その性格が狐と似ているところから陀枳尼天は稲荷信仰と神仏習合して、その強い性格から戦国武将は城の守護神として祀りました。その後、民衆にも信仰が広がり、興雲庵の陀枳尼天は「豊川稲荷」とも呼ばれています。

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明治政府の神仏分離令により、それまで陀枳尼天を祀っていた寺は廃寺となったり、稲荷社の多くは宇迦之御魂神などを祭神とする稲荷神社となりました。しかし、愛知の豊川稲荷は神仏分離を免れ、後に鎮守として稲荷神を勧請する寺院も現れました。

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興雲庵の陀枳尼天は神仏分離を免れた京都では珍しい例で、寺の鎮守であるとともに、商売繁盛、火防、盗難除けの神として住民に信仰されています。

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陀枳尼天堂を後に、建仁寺の西門をくぐり大和大路通に出ました。

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コメント

おしろい花も、だいぶ咲いてきましたね。
黒い種を取るのが楽しいですよね。
昔、家の裏に咲いていたのを思い出します。

投稿: munixyu | 2018年6月22日 (金) 13:43

★munixyuさん こんばんは♪
おしろい花は見かけることが少なくなりました。それなので、見つけるとつい写真に撮ってしまいます。

投稿: りせ | 2018年6月27日 (水) 01:43

私の手元に興雲建仁と書かれ四角い穴があり裏に狐が向かい合い、下に神社の鳥居が書いてある古銭様の物があるのですがどなたかご存じの方はいませんか?

投稿: 黒田修 | 2019年11月20日 (水) 20:09

★黒田修さん こんばんは♪
コメントありがとうございます。私には何なのかまったく分かりません。ただし、鎮守社の陀枳尼尊天は豊川稲荷とも呼ばれ、狐と鳥居が描かれているのはありうるかもしれません。笹に付ける福宝のようなものでしょうか?

投稿: りせ | 2019年11月21日 (木) 02:14

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