« 熊野神社衣笠分社と西大路七福社 | トップページ | 勧修寺 氷室池と花菖蒲 »

2018年6月 1日 (金)

瑞泉寺 豊臣秀次一族の悲劇

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

Jno_1655a
※写真は全てクリックで拡大します。

木屋町三条下るにある瑞泉寺を訪れました。「瑞泉寺」は山号を慈舟山という浄土宗西山禅林寺派の寺院で、豊臣秀吉の甥・秀次とその一族を弔うために建立されました。

Jno_1652a

天下を統一した豊臣秀吉は実子に恵まれず、姉の子の秀次を養子にして、関白太政大臣と豊臣家の家督を譲りました。(山門を入ると右手に「大日如来」の石仏が祀られています。)

Jno_1663a

ところが秀吉の愛妾「淀君」に秀頼が誕生したことから、秀次は実子を盲愛する老齢の秀吉に次第に疎んぜられました。さらに石田三成らの策謀もあって、ついに文禄4年(1595)7月、謀反の罪状を理由に高野山へ追放され、同月15日に自刃させられてしまいました。

Jno_1664a

やがて秀次の首は京に運ばれ、8月2日に三条大橋西南の河原の刑場の土壇の上に西向きに据え置かれました。(上の写真の休憩所には「秀次事件」に関する様々な資料が展示されています。)

Jno_1666a

この日の早朝から死装束にをまとった秀次の一族、すなわち若君4人と姫君、側室として仕えた若く美しい女性たち34人は、市中引き廻わしの後、三条河原に運ばれました。(庫裡にはお墓に供える花が用意されていますが、ない場合もあります。)

Jno_1909a

やがて秀次の首と涙の対面をはたした一族は一人ずつ殺されていき、加茂の清流は鮮血によって朱色に染まったといいます。戦国の世では主君とともに死んでいった子女は数多くいますが、このように子供を含めて罪もない一族の処刑は例がありません。

Jno_1791a

幼い子供たちの処刑にいたっては、見物につめかけた人々も「臓を裂くように魂を痛めずにはいられなかった」と伝えられています。(書院)

Jno_1778a

全ての遺骸は刑場に掘られた大穴に投げ込まれ、その跡には四角錘の大きな塚が築かれました。そしてその塚の頂上に秀次の首を納めた「石びつ」を据え、三条大橋を渡る人々への見せしめとしました。

Jno_1908a

それから16年後の慶長16年(1611)ときの豪商角倉了以は、高瀬川の開削と「木屋町筋」の整備を進めてこの地に到達し、前記の「塚」に参拝しようとしました。(休憩所の前の道の奥に墓所があります。)

Jno_1671a

しかしながら塚はすでに鴨川の洪水によって著しく壊れ、草に埋もれてもはや一本の花をたむける人もないほどに荒廃していました。

Jno_1692a

秀次とその一族に同情していた了以は、浄土宗西山派の僧「立空桂叔和尚」と相談して、荒れた墓域を整理して一族の菩提を永く弔うための寺をそこに建立することとしました。(明治の廃仏毀釈の中で天皇家にはばかって菊花紋がセメントで塗りつぶされています。)

Jno_1784a

そして和尚を開山として、山号を高瀬川を往来する船に因んで慈舟山とし、寺名を京極誓願寺の中興教山上人が新たに秀次へ贈った法名「瑞泉寺殿高巌一峰道意」からとって瑞泉寺としました。

Jno_1724a

その後70年を経た天和3年(1683)第4世敬屋上人に新たに角倉家より巨材の寄進があり、本堂をはじめ現在の瑞泉寺の規模に近い堂宇が完成しました。本堂はかって一族の塚があった場所に建っています。

Jno_1733a

このとき創建の功労者了以と長男の素庵の2体の像が造られ、本尊の阿弥陀如来とともに、現在も本堂に安置されています。

Jno_1754a

寺は天明8年(1788)の大火「どんぐり焼」によって焼失して、本堂は17年後の文化2年(1805)、書院は天保4年(1811)に再建され現在に至っています。本堂の縁廻りの擬宝珠には天保15年の文字が見えます。

Jno_1763b

松下幸之助氏らによって結成された財団法人「豊公会」により、昭和17年(1942)に一族39名および秀次に殉じて自刃した家臣10名の、合計49基の五輪の石塔が新たに造られ、下の墓所に、中央の秀次の墓石を両側からとり囲み、寄り添うかたちに建てられました。

Jno_1823a

中央の秀次の墓の中央に、かって首をおさめた石びつが組み込まれています。石びつには「七月十五日」の日付と「秀次悪逆」と刻まれていましたが、その4文字は角倉了以らにより削られたといいます。

Jno_1806a

駒姫は出羽の大名・最上義光の二女で、関白であった秀次の側室となるために京に嫁いで来て事件に巻き込まれました。当時15歳でまだ秀次の顔を見たこともなかったといいます。

Jno_1802a

墓の横に「中島町の地蔵尊」が祀られています。中島町は古い地図にも記された地名で、この付近が鴨川の中の島(中州)だったことを示しています。角倉了以はその西側の流れを高瀬川として利用し、中州を木屋町として整備しました。

Jno_1832a

この道の突き当りに、墓を維持するためにご支援をお願いする募金箱があります。

Jno_1830a

墓の右隣に「地蔵堂」があります。大雲院の貞安上人が処刑場に自ら運び、処刑される一人ひとりにその前で引導を授けたという引導地蔵尊が安置されています。

Jno_1698a

同じ堂内に、豊公会のもうひとつの事業であった、一族および家臣達の姿を写す49体の極彩色の京人形が安置されています。豊公会は秀吉を敬愛する団体ですが、秀次一族没後350年の記念事業の一環で、晩年の秀吉の罪滅ぼしのようです。

Jno_1705a

本堂と墓の間に元文5年(1740)に建立された宝篋印塔があります。仏の広大な慈悲心と偉大な救済力を秘めた呪文(真言)の一つ「宝篋印陀羅尼」を奉祀する塔で、中央部の四面に経文が刻まれています。

Jno_1735a

その最後に、「伏して祈る!願わくばこの塔の功徳をもって、この世のすべての人々が苦しみから平等に救われますように!」と刻んであります。秀次一族の供養のために建てられたと考えられています。

Jno_1845a

秀次事件は謎が多く、現在でも様々な説が提唱されています。ご住職の中川龍学氏は、秀次一族の悲劇を多くの方に知っていただき、事件の真相を明らかにして秀次の冤罪を晴らすことが寺の使命だと考えているそうです。

Jno_1689a

ご住職は「中川学」という名のイラストレーターでもあります。多くの絵本、書籍や雑誌の挿絵を創作し、海外では世界のイラストレーター特集に掲載されるなど、国内外で高い評価を受けています。御朱印には作品がついています。

Img_20180601_0005a

山門の向こうは高瀬川です。

Jno_1921a

お帰りの前に、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。

  ★こちらを是非よろしく→   ブログ村→にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
-------------------------------------------------------------------

Jno_1963a

|

« 熊野神社衣笠分社と西大路七福社 | トップページ | 勧修寺 氷室池と花菖蒲 »

コメント

秀次を殺してしまったのは大失敗だったと思います。
生きていれば、また歴史が違っていたと思います。

投稿: munixyu | 2018年6月 1日 (金) 14:56

★munixyuさん こんばんは♪
しばらくお返事が滞り、すみませんでした。私の家ではテレビ大阪が映らないので、ようやくBSで「ガイアの夜明け」を見ました。お仕事をされている姿とお母さまが喜んでおられたのが心に残りました。
最近晴れたり雨が降ったりで、梅雨入りが近い気がします。

投稿: りせ | 2018年6月 3日 (日) 00:35

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 熊野神社衣笠分社と西大路七福社 | トップページ | 勧修寺 氷室池と花菖蒲 »