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2018年6月30日 (土)

藤森神社 三つの出来事と祭神たち

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

一昨日の記事の中書島からの帰りに藤森神社を訪れました。「藤森神社」は現在では勝運・学問と馬の神社といわれていますが、その祭神は平安遷都以前に起きた三つの出来事に関わっています。(参道の中央は人と馬、右は車が通るようになっています。)

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社伝によると、神功皇后(じんぐうこうごう)が新羅から凱旋の後、山城の国深草の里藤森の地を聖地として撰び、纛(とう)旗(軍中の大旗)を立て、兵具を納め、塚を造って祀ったことが当社の起こりといわれています。(参道の左に第一紫陽花苑があります。)

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『日本書紀』などによれば、神功皇后は夫の仲哀天皇死後、住吉大神の神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま朝鮮半島に出兵、新羅は戦わずして降伏して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したといわれています(三韓征伐)。

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社伝では摂政3年(203)の出来事となっていましたが、現在では約120年後のことだとされています。紫陽花苑の中央の「蒙古塚」は、かって七つの塚があったとされ、蒙古軍の首塚、あるいは神宮皇后が持ち帰った戦利品の兵器を納めたともいわれています。

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天武天皇皇子・舎人親王は、759年に藤尾(ふじお)の地(伏見稲荷大社の社地)に「藤尾社」として祀られました。一方、稲荷社は当初鎮座していた山上の社殿が火災焼失したので、室町時代の永享10年(1438)後花園天皇の勅により藤尾山に遷されました。

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そのため、藤尾社は現在の藤森の地に遷され、東殿に祀られ官幣の儀式が行われたといわれています。舎人親王は、日本書紀の撰者であり武道にも優れた文武両道の親王でした。没後、太政大臣、崇道尽敬(じんきょう)皇帝の称号を贈られました。(参集殿・宝物殿)

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藤尾大神(舎人親王)は、皇室や藤原一門の崇敬厚く、貞観2年(860)、清和天皇の宝祚に際し奉幣の神事が行われ、これが藤森祭(深草祭)の始まりです。

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桓武天皇の弟・早良親王は皇太子となった後、陸奥・蝦夷で反乱が起こったので征討将軍として当神社に詣で戦勝祈願をして出陣しようとしました。ところが、これを伝え聞いた反乱軍は畏怖して、乱は戦わずして平定されたといわれています。(絵馬舎)

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ところが、延暦4年(785)造長岡宮使長官・藤原種継暗殺事件に連座してその首謀者とみなされ、淡路に流される途中で亡くなりました。延暦19年(800)親王は没後に復権して崇道天皇と追号され、塚本の地(東山区本町)に塚本社として祀られました。(拝殿)

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宝亀3年(772年)、桓武天皇皇子・伊豫親王は、藤原宗成が謀反を謀ったことから疑われ、母藤原吉子(藤原是公女)とともに捕えられて、川原寺に幽閉、毒をのんで母子共に自害しました。(手水舎の水鉢の台石は、石川五右衛門が宇治浮島の十三重塔の第9層を盗んできたといわれています。)

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宝亀3年(772年)に井上内親王が、光仁天皇(桓武天皇の父)を呪詛したという罪で皇后を廃され、その子である他戸親王の皇太子の地位も剥奪されました。その後、井上内親王と他戸親王は、幽閉先で非業の死を遂げました。

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桓武天皇の周辺で起きたこれらの事件は、いずれも桓武天皇が権力を掌握するために起こした冤罪事件であると考えられています。

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天長3年(807)伊豫親王と井上内親王の2柱を塚本社に合祀して官幣の儀式が行われました。塚本社は、たびたびの火災により小天王の地(深草西出町)へ移り、応仁の乱で焼失したため藤森に遷され、藤森神社の西殿に祀られました。

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本殿の中央(中座)には神功皇后の新羅凱旋に関して、素盞鳴命、別雷命、日本武尊、応神天皇、仁徳天皇、神功皇后、武内宿禰の7柱を祀ります。東殿(東座)の舎人親王と天武天皇、西殿(西座)の早良親王、伊豫親王、井上内親王を合わせて12柱が祭神です。

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本殿は、正徳2年(1712)中御門天皇より賜わった宮中内侍所(賢所、かしこどころ)の建物といわれます。藤森神社は京都十六社朱印めぐりの一つ、伏見五利益めぐりの一つです。

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勝運と馬の神としても知られ、武運、男子守護、勝負勝運、学問、競馬守護などの信仰があります。

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本殿の右に湧き出る御神水は二つとない美味しい水という意味で「不二の水」とよばれ、武運長久・学問向上、特に勝運を授ける水と信じられています。

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5月5日は「藤森祭」で、朝から神輿3基が氏子内を巡行し、甲冑鎧に身を固めた武者が供奉し行列が練り歩きます。端午の節句に武者人形を飾る風習はこの行事に由来します。

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藤森祭は「菖蒲の節句」発祥の祭といわれます。菖蒲は尚武、勝負に通じ、勝運を呼ぶ花と信じられてきました。本殿の左前に「菖蒲の節句発祥の地」の碑があります。

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「御旗塚」 神功皇后が纛旗を建てた場所で、藤森神社発祥の地です。この「いちいの木」は“いちのきさん”として親しまれ、ここに参拝すると腰痛が治るといわれ、幕末に近藤勇も参拝したと伝えられています。

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本殿の右奥に第二紫陽花苑があります。

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「八幡宮」(重文) 室町時代の1438年、足利義教が建立、応神天皇を祀ります。

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ところで、かって当神社の祭神(藤尾社)が鎮座していたことから、現在の伏見稲荷大社の周辺は藤森神社の氏子が集まっています。(「祖霊社」 神職、氏子総代、特別に崇高が篤い人々の霊を祀ります。)

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「七社」 右から吉野神社、廣田神社、諏訪神社、住吉神社、厳島神社、熊野神社、天満宮社、本殿の真後ろにあります。

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藤森祭の神輿3基は、氏子町内を巡行し伏見稲荷大社の楼門前まで渡御し、担ぎ手は「土地返しや、土地返しや」と囃し立て、旧社地の返還を求める慣わしがあるそうです。

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「大将軍社」(重文) 平安遷都の際に、都の四方に方位を守る大将軍神社が置かれました。南は藤森神社境内の大将軍社で、現在は北磐長姫命(いわながひめのみこと)を祀ります。現在の社殿は室町時代の1438年、足利義教が建立。

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伏見稲荷大社の神官は、藤森神社の神輿に「神様はお留守、お留守」と応えるのだそうです。(「霊験天満宮」 祭神として菅原道真を祀ります。)

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藤森祭では「駈馬神事」も行われます。早良親王が陸奥・蝦夷の反乱に対する征討将軍の勅を受けて、藤森神社に戦勝祈誓したときの勇ましい出陣風景まねたものといわれます。

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曲乗りを競うのですが、速さもすごく圧倒されます(以前の写真です)。

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本日(6月30日)は本殿前で夏越大祓(茅の輪くぐり)が行われます。

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コメント

夏越大祓、家の近くでも今日やっていると思います。
こないだ形代に息を吹いておいたので、
今ごろ川で浮いていると思います。
夏ですね。

投稿: munixyu | 2018年6月30日 (土) 15:22

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