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2018年6月 7日 (木)

無鄰菴 南禅寺界隈別荘群の先駆け

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の金地院を出て、無鄰菴(むりんあん)を訪れました。インクラインの上にかかる南禅寺橋を渡ると、二つの道路に挟まれた無鄰菴の敷地が見えてきます。右は疏水沿いの仁王門通、左は瓢亭の前の通りです。

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「無鄰菴」は、明治・大正の政治家・山縣有朋が、明治27年(1896)から29年にかけて造営した別荘です。下はパンフレットの図で、3方を道路で囲まれた東西に長い敷地は3135㎡(950坪)の面積があります。

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瓢亭の横の南北の通りの中間に表門があります。上図の番号に従って見学していきます。左にある拝観受付から、右にある木戸を通り母屋に上がります。

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母屋は木造平屋の桟瓦葺(一部は2階建、銅板葺)の建物です。明治28年(1895)に建てられ、明治31年(1898)と大正期に改造されています。下は次の間付き8畳の「居間兼客座敷」です。次の間とは控えの間で、南には茶室が見えます。

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山縣有朋は、別荘の主体は庭園として座敷から庭を鑑賞することに重点を置いていたため、母屋は簡素な造りになっています。東は庭園が見えます。

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隣の部屋は次の間付き10畳の「会議の間」です。こちらからはより庭園の眺めがよくなります。

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このあたりの岡崎地域は江戸時代末期まで田畑の広がる風景でした。しかし、東京に首都が移されたことで、京都は衰退の一途をたどります。京都府知事北垣国道は、衰退した京都を復興させるために、琵琶湖疏水計画を立案、岡崎地域の開発に取り組みました。

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また明治政府の政策により、南禅寺境内はその5分の4が国有地となり、その区域に大津から引かれた疏水の水力を利用した一大工業地帯を作ろうと計画されました。

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しかし国外から水力発電の技術が導入され、隔たった場所へ送電が可能になったため、工業用地を別荘地として売り出し、風致を保存しようということになりました。それが近代日本庭園の名庭が今も数多く残る南禅寺界隈別荘群の始まりです。(下は坪庭)

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無鄰菴では「野鳥ミニ講座」が開かれています。開催日:5/30ハシブトガラス、6/6スズメ、6/13オオルリ、6/20キビタキ、6/27キセキレイ、7/4トビ、7/11アオサギ、7/18カワウ、7/25ドバト。開催時間14:00-14:30、参加無料、会場:母屋1階、解説:無鄰菴スタッフです。

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庭に降りて、散策路に沿って東の端まで歩きます。庭園は山縣自らの指示によって、7代目小川治兵衛が作庭しました。東山を借景として、手前(西)は芝生が広がる開放的な空間となっています。(東から流れてくる水は緩やかな瀬落ちとなり下流に流れていきます。)

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少し遡ると流れは池になり、まるで高原の雰囲気です。

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その後、明治28年に国内物産の開発・奨励のための第4回内国勧業博覧会が開催されたことを皮切りに、明治36年(1903)に動物園、明治42年(1909)に府立図書館、昭和3年(1028)に美術館が設置され、現在の岡崎地域の開発の基礎となりました。

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山縣有朋は長州藩の下級武士の家に生まれ、吉田松陰の松下村塾に入塾して学び、高杉晋作・木戸孝允・伊藤博文らと親交を結びました。高杉晋作の創設した奇兵隊に参加して頭角をあらわし、後に4代目の司令官となり、幕末維新期の騒乱において活躍します。

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山縣は明治政府の軍政を担い陸軍を創設する一方、第3代内閣総理大臣となり伊藤博文とともに政治体制の近代化に貢献しました。(散策路は流れの南の林の中を通ります。このあたりも当初芝生でしたが、年を経て約50種類の苔に代わっています。)

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7代目小川治兵衛は、屋号を「植治」という明治・大正・昭和を代表する作庭家です。江戸時代中期から続く植木屋治兵衛の養子になりましたが、早くに養父を亡くしたため独学で作庭法を学びました。(「沢飛び石」の上から下流が見渡せます。)

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「三段の滝」 流れの源は琵琶湖疏水から引いた水ですが、東山から流れ落ちてくるように見えます。

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治兵衛は山縣有朋ら明治時代の著名人との出会いから多くを学び、琵琶湖疎水からの導水という新たな手法も用いて、無鄰菴や平安神宮神苑、何有荘庭園(旧「和楽庵」)など近代的日本庭園を作庭しました。

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「御賜稚松乃記」には山縣の庭園観が歌として刻まれています「春はあけはなるゝ山の端の景色はさらなり。夏は・・・」。この言葉は庭園の育成管理の根幹ともなっているそうです。

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一般に日本庭園の維持管理では、自然に生えた「野草」は取り除きますが、この庭園では、施主・山縣の想いをひきつぎ、「野花」を活かした生き生きとした庭園の育成管理を試みているそうです。

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「茶室」は明治28年(1895)頃に移築されました。主座敷は三畳台目で、古田織部好みの代表的茶室である薮内流の燕庵を模して造られています。移築に伴って勾欄の付いた広縁に作り替え、山縣自身が「月見台」と名付けてそこからの眺めを楽しんだと伝わります。

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無鄰菴は昭和16年(1941)に京都市に譲渡され、昭和26年(1951)に近代の名園として国の名勝に指定されました。京都市では、母屋の2階と茶室の貸し出しを行っているそうです。また、閉場時間後の一棟貸も可能だそうです。

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敷地の南西に明治31年(1898)に完成した煉瓦造り2階建ての「洋館」があります。

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一階は、無鄰菴の造営工事、山縣有朋、7代目小川治兵衛などの資料とともに、現在の庭園の維持管理方法の展示が行われています。京都市では平成19年度からプロポーザル入札制度を導入して、より好ましい提案を行った団体に庭園の管理を委託してきました。

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この制度により植彌加藤造園株式会社の提案が採用されました。施主・山縣有朋の作庭当初の構想を調べ、その想いをくみ取りつつ、現代の気候変動や私たちの感覚の変化を折り込んだ「生きている庭を育む」という考え方だそうです。

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2階には江戸時代初期の狩野派による金碧花鳥図障壁画で飾られた部屋があります。ここで、明治36年(1903)4月21日元老・山県有朋、政友会総裁・伊藤博文、総理大臣・桂太郎、外務大臣・小村寿太郎によって、東アジアに関する「無鄰菴会議」が開かれました。

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満州や朝鮮に進出していた日本に対し、強硬な南下政策を進める露国を討つべしと世論が高まっていた時期でした。会議では「満韓交換論」に基づいて対露直接交渉の方針が決められ、政府首脳陣はまだ外交交渉によって戦争を避けようと模索していました。下の小部屋に山縣愛用の書見台つき椅子とテーブルがあります。

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ところで、「無鄰菴」と名付けられた山縣邸は三つあります。最初の無鄰菴は郷里の長州・下関の草庵で、名前の由来はこの草菴に隣家がないことによるとされています。 第二の無鄰菴は木屋町二条に購入した別邸で、第三の無鄰菴がこの別邸です。

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母屋は「無鄰菴カフェ」にもなっています。ドリンク各種や真盛豆付き抹茶、甘味として、ロシアケーキ(村上開新堂)やオリジナル三笠(京阿月)などがあります。三笠はどら焼きのことで、無鄰菴の流れをイメージした焼き印があります。

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コメント

白い花は、くちなしの花ですね。
昔、家の裏に大きなくちなしがあったのを
思い出します。いい匂いですよね。

投稿: munixyu | 2018年6月 7日 (木) 10:41

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