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2018年6月 6日 (水)

金地院 以心崇伝と東照宮・名勝庭園

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

本格的な雨が降る前にと、金地院に行ってきました。「金地院」は、室町時代の応永年間(1400年頃)室町幕府第4代将軍・足利義持が、南禅寺68世大業徳基(だいごうとくき)を迎えて北山に創建したのが始まりです。

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江戸時代初めの慶長10年(1605)に南禅寺270世以心崇伝(いしんすうでん)により再興され、現在地に移築されました。(正面は方丈、右は拝観受付で、左にある庭園に向かいます。

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庭園の入口に「明智門」があります。明智光秀は、天正10年(1582)に本能寺の変で織田信長を倒してから山崎の戦いで豊臣秀吉ら破れる短い期間ですが、五山や大徳寺に銀を寄進しました。

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大徳寺は光秀の冥福を祈るため、その銀を用いて方丈の南門を建てました。明治になって門は金地院に譲られ、もともとこの位置にあった門(国宝の唐門)は秀吉を祀る豊国神社に移されました。

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明智門を入ると弁天池があり、中之島に鎮守堂があります(木に隠れて見えませんが)。石橋の二つの石は岡山藩主・池田忠雄(1602-1632)が寄進したものです

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拝観路は池に沿って楼門の方に向かいます。

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下は金地院の外の通りから見た楼門で、拝観路は門の内側を通ります。

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楼門から東照宮へと続く参道に入ります。徳川家康は、大阪夏の陣で豊臣家が滅亡した後の1616年に没し、その遺命にもとづいて小堀遠州の設計で1628年にこの地に東照宮が造営されました。京都で唯一の権現造様式の建物だそうです。

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家康は、死後1周忌に日光に改葬されましたが、現在の日光東照宮の荘厳な社殿が造られたのは1636年の21周忌でした。創建当初のこちらの東照宮は日光東照宮に比べられるほどの規模だったそうです。

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家康が日光に祀られることになったのはその遺言からです。崇伝の日記「本光国師日記」には「遺体は久能山に納め、・・・ 一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること。そして、八州の鎮守となろう」と書かれています。「御透門」

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「八州の鎮守」は日本全土の守り神のことです。家康は不動の北辰(北極星)の位置(日光)から幕府の安泰と日本の平和を守ろうとしたと伝えられています。改葬の際に、崇伝と南光坊天海の間で吉田神道と山王神道のどちらで祀るかの論争となりました。

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結局、天海が主張した山王之神道が採用され、薬師如来を家康(東照大権現)の本地仏とする神仏習合によって祀られることになりました。これは天海が家康の遺言を偽ったからといわれています(振り返って、御透門。)

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本殿には家康の遺髪と念持仏を祀り、土佐光起(1617-1691)筆の三十六歌仙の額、青蓮院宮尊純法親王(1591-1653)筆の歌が納められています。拝殿天井には狩野探幽(1602- 1674)筆の「鳴龍」があります。

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社殿は、前から拝殿、間をつなぐ石之間、本殿からなる権現造りになっています。

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右手にある「御成門」をくぐります。

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石段を見ると、東照宮がかなり高い場所にあることが分かります。

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石段を降りたところに以心祟伝の塔所「開山堂」があります。崇伝は1569年に室町幕府幕臣の一色秀勝の次男として京都で生まれ、将軍家の側近としての将来が約束されていました。

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しかし室町幕府が崩壊したため仏門に入ることになりました。南禅寺で学び、醍醐寺・三宝院、福厳寺、禅興寺を経て、1605年に建長寺住持、さらに南禅寺270世となり金地院を再興しました。正面に崇伝の木像が祀られています。

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1608年には徳川家康に招かれ幕府外交関係の書記を務め、1610年に駿河に開いた金地院に住しました。1612年からは宗教の統括にも関わり、1618年江戸城内に金地院を与えられました。(左右に十六羅漢像が祀られ、上に後水尾天皇の勅額がかかっています。)

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さらに、崇伝は徳川幕府の伴天連(キリスト教)追放令、寺院諸法度、武家諸法度、禁中並公家諸法度などの起草・制定を行い、幕府の宗教、武家、朝廷政策を一手に担いました。(開山堂の正面には方丈前園が広がり、こちらからは東山が借景となっています。)

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方丈の前に来ました。方丈前庭は蓬莱式枯山水庭園(特別名勝)で、「鶴亀の庭」と呼ばれています。徳川3代将軍・家光のために、小堀遠州が設計し1632年に完成しました。

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東照宮の高地の山林が大刈り込みとなり深山幽谷を表しています。右の鶴首石は、安芸城主・浅野家より贈られ、船と陸路を牛45頭で運ばれてきたそうです。その右の土盛りは鶴島でその岸は羽石が三尊形式で組まれ、松が植えられています。

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中央の大きな長形の平面石は、東照宮の遥拝石とされ、方丈から東照宮を礼拝する祭壇の役割を果たすとか。前面の白砂は海洋を表しています。

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左の亀頭石 その奥から左に亀島があり、曲がった枝ぶりの槙柏(ビャクシン)が植えられています。亀島中央に亀甲石(三尊石)が組まれ、左端に亀尾石の立石があります。鶴と亀の石は互いに向かい合っています。

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ところで、以心崇伝は徳川幕府の制度的基盤を作っただけでなく、方広寺の鐘の件で豊臣家滅亡のきっかけを作り、紫衣事件で朝廷の財政的基盤を奪い、キリスト教弾圧など、幕府を脅かす要因を取り除く汚れ役も演じました。

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崇伝は1633年江戸城内の金地院で死去、享年65歳でした。崇伝の死後、彼が一手に担っていた役割が合議制に変わり、江戸幕府がより安定的に存続することになったともいわれています。

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以心崇伝は南禅寺の金地院と江戸城内の金地院を行き来しながら政務を行い、その間、南禅寺や建長寺の再建復興にも尽力、古書の収集や刊行などの文化的事業も行いました。

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コメント

緑が少し深くなってきましたね。
いよいよ梅雨入り。
しばらく雨が続きそうですね。
植物にとっては嬉しい梅雨でしょうが・・・。

投稿: munixyu | 2018年6月 6日 (水) 14:23

★munixyuさん こんばんは♪
今日は一日雨でした。梅雨になると緑も映えて、紫陽花も色鮮やかになりますが、写真を撮りに出かけるのがちょっとおっくうになります。

投稿: りせ | 2018年6月 6日 (水) 23:17

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