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2018年6月13日 (水)

三条小鍛冶の旧跡を訪ねて

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

今日は平安時代の刀匠・三条小鍛冶の旧跡をたどり、粟田口にある三つの寺社を訪ねます。最初は、昨日の記事の最後に出てきた佛光寺本廟です。山門付近では、足の不自由な方が乗るリフトの整備や「お茶所」新設の工事を行っています。

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佛光寺は真宗佛光寺派の本山で、鎌倉時代前期の建暦2年(1212)越後に流罪になっていた親鸞聖人が一時帰洛されたとき、高弟源海上人が山科に創建した寺院が始まりです。(寺務所)

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安土桃山時代の天正14年(1586)、豊臣秀吉が方広寺を建立したとき、代替地として現在地(下京区高倉通仏光寺)を寄進されて移転しました。こちらは江戸時代の元禄年間(1688-1703)別院を建立してに親鸞聖人の廟堂(お墓)を遷したものです。(本堂)

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「粟田口」とは三条通(旧東海道)の白川橋から東の蹴上にかけての広い地域を指します。奈良時代以前から開かれた土地で、粟田氏が本拠として粟田郷と呼ばれていました。(境内の奥に廟堂があります。)

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平安京ができると、東国との交通の要地あるいは軍事上の要衝にあたることから、やがて粟田口(三条口)と呼ばれ、京都七口の一つにも数えられました。また、平安時代の末以降、刀鍛冶たちがこのあたりに住居を構えました。

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中でも、名刀「小狐丸」の伝説が残る刀匠・三条小鍛冶宗近が有名です。『拾遺都名所図会』によると、佛光寺本廟境内に刀剣を鋳るときに用いた井水があったといわれています。

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既に井戸はありませんが、廟堂の前に「三条小鍛冶宗近之古跡」の碑が建っています。姓は橘、名は宗近(むねちか)とされ、三条に住んでいたことから三条宗近、三条小鍛冶とも呼ばれました。

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ここから三条通を西に戻ります。

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「合槌稲荷明神」 三条通に面して北に鳥居があります。

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鳥居の奥から左に狭い路地があり、民家が並んでいます。

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この地には三条小鍛冶の屋敷があり、信仰した稲荷神の祠堂が敷地にあったといわれています。(路地は少し右にずれ、その奥に小さな社地があります。)

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宗近は、橘仲遠の子ともいわれ藤原兼家に仕えましたが、事件を起こし薩摩へ流罪となりました。そこで鍛冶を学んだともいわれ、永延年間(987‐989)に赦されてこの地に住みました。(石の鳥居が並んでいますが、狭いので全体が写りません。)

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刀の焼入れに伏見稲荷山の土を用い、その度に稲荷明神に祈願したといわれています。

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寛和2年(986)一条天皇の即位に際して剣「小狐丸」を製作しました。(ご朱印を始めたそうで、粟田神社の社務所で受付けています。)

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謡曲「小鍛冶」では、一条天皇の勅命により、宗近が刀を鍛えたとき、稲荷神社使いの狐が若者に化け、合槌(相槌)を打って名刀「小狐丸」を完成させたという話があります。末社の「 二ノ富弁財天 」。

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祠のそばにはかっての鳥居の石材が置いてありました。

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宗近は、日本刀が直刀から反りのある湾刀に変化した時期の代表的名工として知られています。現存する作品として、「三日月宗近」(国宝)は徳川宗家伝来品で、現在は東京国立博物館が所有しています。

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また、祇園祭の長刀鉾の鉾頭の長刀は、宗近が娘の疫病治癒を感謝して鍛造し祇園社に奉納したものといわれています。

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三条通の斜め向かいにある粟田神社に入ります。

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江戸時代の元和年間(1615-1624)に瀬戸からこのあたりに焼き物の技術が伝えられ、「粟田焼」と呼ばれる陶器の産地になりました。

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粟田神社の創建や社殿については明日の記事をご覧ください。しばらく参道がつづき左手には民家が並んでいます。

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旧東海道に面しても鳥居があります。粟田神社の社殿はここから坂道を上ったところにありますが、鳥居をくぐったすぐ左の月極駐車場の一角に末社があります。

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「鍛冶神社」 ここには、三条小鍛冶宗近、鎌倉時代の刀鍛冶・粟田口藤四郎吉光、および、作金者(かなだくみ)の祖・天目一筒神(あめのまひとつのかみ)を祀っています。これらは鍛冶の神として信仰されています。

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吉光は粟田口藤四郎とよばれ、政宗とならぶ名工、特に短刀づくりの名手といわれました。ほとんどの作は単に吉光の銘だけで、親、兄弟の作から鎌倉中期の刀工と見られています。豊臣秀吉は、正宗・郷義弘と共に「天下の三名工」と称賛しました。

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珍重されたので織田信長や豊臣秀吉などが蒐集し、本能寺の変や大坂夏の陣で焼身になったものが多くあります。焼身とは火事などで高熱にさらされ、急冷されていないので、「焼き入れ」とは違い硬さがなくなり、なまくらになった刀身です。

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徳川家康は大坂夏の陣の後、焼身や紛失した吉光や正宗など業物の刀を探させました。焼身は初代越前康継によって焼き直され、現在にその姿を残すものも多くあります。

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明治天皇の歌碑「真心をこめて錬(ねり)ひしたちこそは 乱れぬくにのまもりなりけれ」。

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コメント

刀の価値は、よくわからないですよね。
木でも切ってみるとわかりそうですが、
今は、切れないから余計にわからないですよね。

投稿: munixyu | 2018年6月13日 (水) 14:34

★munixyuさん こんばんは♪
確かに、刀は武器としてと美術工芸品としての価値がありますね。昔はそれが一致していたのかも知れませんね。

投稿: りせ | 2018年6月17日 (日) 00:41

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