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2018年6月18日 (月)

建仁寺 庭園と法堂2018

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

建仁寺塔頭の両足院を出て、本坊の庭園と法堂の拝観をしました。拝観受付は本坊(庫裡)にあります。

「建仁寺」は鎌倉時代前期の建仁2年(1202)将軍・源頼家が寺域を寄進し、栄西禅師を開山として宋国の百丈山を模して建立されました。元号を寺号とし、山号を東山(とうざん)と称します。

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創建時は天台・密教・禅の三宗兼学の道場でした。その後、寛元・康元年間の火災等で境内は荒廃するも、1258年東福寺開山円爾弁円(えんにべんえん)が入寺して復興し、禅も盛んとなりました。(下は拝観区域の見取り図です。)

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その後の1259年宋の禅僧、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が入寺してからは禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ、純粋の禅の道場となりました。(拝観受付を過ぎると、ビデオルームに複製の風神雷神図屏風と金澤翔子書「風神雷神」)があります。)

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「○△□(まるさんかくしかく)乃庭」 2006年に北山安夫の作庭で、○は苔地や砂紋、△は遠近法による白川砂の砂地、□は井筒を表します。本坊(左)、方丈(奥)、小書院(右)に囲まれています。○△□は禅の神髄を表すとされますが、解釈には諸説あります。

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小書院に鳥羽美花さんの襖絵16面が展示されています。鳥羽さんは京都市立芸術大学大学院修了後、日本独自の染色技法「型染め」を駆使して、ベトナムの光景を描いた一連の大作を制作して、新たな染色絵画の世界を切り開いたといわれています。

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2014年に栄西禅師800年大遠諱記念事業として奉納されたもので、今後大書院36面の襖絵を制作予定だそうです。

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小書院から「潮音庭」 小堀泰巌老大師(臨済宗建仁寺派管長)の作庭、北山安夫監修による苔庭です。高雄の景石を用い、法堂の三尊仏に見立てた三尊石があります。右に座禅石や紅葉などの植栽があり、島と海が表現されています。

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室町時代になり、幕府により中国の制度にならった京都五山が制定され、建仁寺はその第三位として厚い保護を受け大いに栄えましたが、戦乱と幕府の衰退により再び荒廃しました。(渡り廊下を大書院の方に向かいます。右が潮音庭。)

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開山堂の楼門に安置されていた陶製十六羅漢像が展示されていました。これらは清水五条の陶器職人たちが、それぞれ自分の最も得意とする技術で作り上げて建仁寺に献上したものです。

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大書院から潮音庭、大小の島を流れが回る様を表すといいます。秋に紅葉するヤマモミジ、ドウダンツツジ、冬の唯一の緑、常緑樹のヤブツバキが植えられています。

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安土桃山時代の天正年間(1573-1592)になって、安国寺恵瓊(えけい)が方丈や仏殿を移築して復興が始まりました。(もう一度渡り廊下を戻り、右にある方丈に向かいます。)

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方丈の北庭と「納骨堂」

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江戸時代になり、徳川幕府の保護のもと堂塔が再建・修築され、制度や学問が整備されます。(方丈の西庭、ここから下に降りて方丈の北にある茶室を見に行きます。)

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明治時代になり、政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派が分派独立、建仁寺はその大本山となりました。(方丈の北庭のさらに北に「田村月樵遺愛の大硯」があります。方丈には月樵による障壁画「唐子遊戯図」があります。)

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また、神仏分離令後の廃仏毀釈により塔頭の統廃合が行われ、余った土地は政府に没収され、境内が半分近く縮小されて現在にいたります。「清涼軒」

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隣に茶席「東陽坊(とうようぼう)」があります。豊臣秀吉の北野大茶会(1587)で、紙屋川の土手に建てられ、その後真如堂から上京を経て1892年頃に建仁寺境内に移されました。

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利休の高弟で天台宗の僧・東陽坊長盛が担当した副席だったとされ、利休は東陽坊に、鋳込んだ釜と長次郎作の黒楽茶碗「東陽坊」などを贈ったといわれています。中はニ畳台目の茶席の規範的な形とされます。

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「安国寺恵瓊の首塚」 建仁寺を復興した恵瓊は毛利家の外交僧で一説には戦国大名でもあったといわれます。関ヶ原の戦(1600)では西軍についたので六条河原で斬首され、その首を建仁寺の僧侶が持ち帰りここに葬ったといわれています。

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もう一度方丈に戻り外縁を回ります。庭の南西隅に七重の塔があります。織田有楽斎が兄の信長追善のために立てた供養塔で、1898年に開山堂の南からここに移されました。

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方丈南庭(大雄苑)にある唐門、南から勅使門、三門、法堂と一直線上にあります。

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「建仁寺方丈障壁画」(重文)は、かつて方丈に飾られていた全50面の襖絵で、安土・桃山時代から江戸時代にかけて活躍した海北友松が制作したものです。「竹林七賢図」、「琴棋書画図」、「雲龍図」、「山水図」、「花鳥図」から構成され日本を代表する大障壁画です。

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1934年には室戸台風によって方丈が倒壊しましたが1940年に再建、その時大書院が建立されました。障壁画は方丈が倒壊した際、幸いにも襖をはずしていたため難を逃れましたが、現在は襖から掛軸に形を変えて、現在は京都国立博物館に保管されています。

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2009年京都文化協会と(株)キヤノン株式会社が「綴プロジェクト」を開始して、全50面の高精細複製品が制作され、2014年開祖・栄西禅師の八百年大遠諱記念事業として、元の襖の姿で建仁寺に寄贈されました。下は「雲竜図」。

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最初に見た風神雷神図屏風も同プロジェクトによる高細密複製で、すべての複製品が撮影可能です。方丈の南にある「法堂」に入ります。江戸時代中期の1765年に上棟した禅宗様仏殿建築で、「拈華堂(ねんげどう)」とよばれます。

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正面須弥壇には本尊釈迦如来座像と脇侍迦葉尊者・阿難尊者が祀られています。

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天井には創建800年を記念して、2002年「小泉淳作画伯」筆の双龍が描かれました。

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コメント

「○△□(まるさんかくしかく)乃庭」
面白い名前の庭ですね。
天井の龍は、生命感があっていいですよね。

投稿: munixyu | 2018年6月18日 (月) 14:08

地震は大丈夫でしたか!京都も南部は揺れたそうですね。。。待庵の壁にヒビが入ったなんてニュースも聞きました。亡くなった方も居て残念ですね。。
建仁寺の法堂の龍は確かに見た記憶があるのですが、ほかの所を見た記憶がありません。。。時間がなくてそっちしか見ていなかったのかなぁ。。と記憶をまさぐっていますw栄西800年忌の時に東京国立博物館でも展示が行われて、四頭茶会の場などが再現されていて見ごたえがあったなぁ。。

投稿: ばるさろ | 2018年6月18日 (月) 21:39

★munixyuさん こんばんは♪
〇△□とだけ書いた掛け軸もありました。禅の世界では意外なものに意味があると考えるのですね。天井の龍は写真撮影ができる数少ない作品です。現代の作品も迫力がありますね。

投稿: りせ | 2018年6月21日 (木) 21:54

★ばるさろさん こんばんは♪
地震の心配、ありがとうございます。家にいたのですが、びっくりしました。棚においてあるものが落ちた程度でしたが、しばらくは余震が怖くて水だけは貯めておきました。
栄西800年忌の展覧会は東京国立博物だけだったようですね。建仁寺では昔の襖絵などは全て細密な複製品に置き換えられていて、何を写真に撮っても結構ですといわれます。違いは区別できなくても、本物が展示されたら改めて見に行きたいと思います。

投稿: りせ | 2018年6月21日 (木) 22:15

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