建仁寺 庭園と法堂2018
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建仁寺塔頭の両足院を出て、本坊の庭園と法堂の拝観をしました。
「建仁寺」は鎌倉時代前期の建仁2年(1202)将軍・源頼家が寺域を寄進し、栄西禅師を開山として宋国の百丈山を模して建立されました。元号を寺号とし、山号を東山(とうざん)と称します。(拝観受付は庫裡にあります。)

創建時は天台・密教・禅の三宗兼学の道場でした。その後、寛元・康元年間の火災等で境内は荒廃するも、1258年東福寺開山円爾弁円(えんにべんえん)が入寺して復興し、禅も盛んとなりました。(下は拝観区域の見取り図です。)

その後の1259年宋の禅僧、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が入寺してからは禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ、純粋の禅の道場となりました。(拝観受付を過ぎると、ビデオルームに複製の風神雷神図屏風と金澤翔子書「風神雷神」)があります。)

「○△□(まるさんかくしかく)乃庭」 2006年に北山安夫の作庭で、○は苔地や砂紋、△は遠近法による白川砂の砂地、□は井筒を表します。本坊(左)、方丈(奥)、小書院(右)に囲まれています。○△□は禅の神髄を表すとされますが、解釈には諸説あります。
小書院から「潮音庭」 小堀泰巌老大師(臨済宗建仁寺派管長)の作庭、北山安夫監修による苔庭です。高雄の景石を用い、法堂の三尊仏に見立てた三尊石があります。右に座禅石や紅葉などの植栽があり、島と海が表現されています。
室町時代になり、幕府により中国の制度にならった京都五山が制定され、建仁寺はその第三位として厚い保護を受け大いに栄えましたが、戦乱と幕府の衰退により再び荒廃しました。(渡り廊下を大書院の方に向かいます。右が潮音庭。)
大書院から潮音庭、大小の島を流れが回る様を表すといいます。秋に紅葉するヤマモミジ、ドウダンツツジ、冬の唯一の緑、常緑樹のヤブツバキが植えられています。
安土桃山時代の天正年間(1573-1592)になって、安国寺恵瓊(えけい)が方丈や仏殿を移築して復興が始まりました。(もう一度渡り廊下を戻り、右にある方丈に向かいます。)
方丈の北庭と「納骨堂」。
江戸時代になり、徳川幕府の保護のもと堂塔が再建・修築され、制度や学問が整備されます。(方丈の西庭、ここから下に降りて茶室を見に行きます。)
明治時代になり、政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派として分派独立、建仁寺はその大本山となりました。(方丈の北庭のさらに北に「田村月樵遺愛の大硯」があります。方丈には月樵による障壁画「唐子遊戯図」があります。)

また、神仏分離令後の廃仏毀釈により塔頭の統廃合が行われ、余った土地は政府に没収され、境内が半分近く縮小されて現在にいたります。「清涼軒」
隣に茶席「東陽坊(とうようぼう)」があります。豊臣秀吉の北野大茶会(1587)で、紙屋川の土手に建てられ、その後真如堂から上京を経て1892年頃に建仁寺境内に移されました。

利休の高弟で天台宗の僧・東陽坊長盛が担当した副席だったとされ、利休は東陽坊に、鋳込んだ釜と長次郎作の黒楽茶碗「東陽坊」などを贈ったといわれています。中はニ畳台目の茶席の規範的な形とされます。
「安国寺恵瓊の首塚」 建仁寺を復興した恵瓊は大名でもあり、関ヶ原の戦(1600)では西軍についたので六条河原で斬首され、その首を建仁寺の僧侶が持ち帰り葬ったといわれています。

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