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2018年6月14日 (木)

粟田神社 真実の創建由緒

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事で粟田神社の末社・鍛冶神社を訪れましたが、改めて旧東海道に面する鳥居から。

粟田神社は京都の東の出入口の粟田口に鎮座し、古来から東山道・東海道を行き来する人々が旅の安全を願い、また道中の無事を感謝して当社にお参りをして、いつしか旅立ち守護の神として知られるようになったそうです。

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社伝によると、平安時代前期の貞観18年(876)に清和天皇は兵災、疫病を鎮めるために、出羽守・藤原興世を勅使として神院祇園社(八坂神社)で祈願を行いました。(急な坂道の参道を登ります)

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その際に神託を受けて、牛頭天王にゆかりのあるこの地に社を建て、神霊を祀ったのが粟田神社の始まりとされます。(拝殿)

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平安時代後期の永久年間(1113-1118)に天台座主・東陽坊忠尋大僧正が再建しました。(拝殿には太刀が飾ってありましたが、その説明はありません。)

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平安時代の応仁の乱(1467-1477)では社殿が焼失してしまいましたが、1500年に室町幕府は吉田神道・吉田兼倶に命じて、足利義尹(義稙)の産土神として、感神院祇園社から新たに祭神を勧請しました。(左手に展望台があり、平安神宮の大鳥居が見えます。)

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江戸時代前期の1624年、天王祭をめぐって岡崎天王社(岡崎神社)との間で争いが起こり、以後、岡崎天王祭は祭日を一日ずらした事件がありました。(中央は金戒光明寺の山門、現在では隠れていますがその右に岡崎神社も見えていたはずです。)

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「聖天社」 拝殿の横に再建予定地とあります。当社の初代別当・湛海寶山律師が刻んだ聖天像が残されています(現在本殿内に安置)。江戸時代には参道中腹にある別当坊の前に聖天堂がありましたが、明治の廃仏毀釈により撤去されました。

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江戸時代末までは、旧粟田口村の産土神として、感神院新宮、あるいは牛頭天王を祭ることから粟田天王社または粟田八大王子社と呼ばれていました。幕末の1861年、仁孝天皇皇女・和宮の降嫁の行列が、道中安全の祈願のために当社に立ち寄りました。

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明治初年(1868)の神仏分離令によって、牛頭天王の本地仏の薬師如来が撤去され青蓮院に遷されました。そして、祭神の牛頭天王はそれまで同一視されていた素戔嗚尊(すさのおのみこと)に改められました。素戔嗚尊は古事記では建速(たけはや)素盞嗚尊。

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本殿の中央に建速素盞嗚尊と大己貴命(おおなむちのみこと).、左座に八大王子命(はちだいおうじのみこと)、右座に奇稲田比賣命(くしいなだひめのみこと)、神大市比賣命(かむおおいちひめのみこと)、佐須良比賣命(さすらひめのみこと).を祀ります。

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奇稲田比賣命は素盞嗚尊の妻、八大王子命は夫婦神の子神たちです。大己貴命は素盞嗚尊の娘・佐須良比賣命と結婚して後に大国主命となりました。神大市比賣命も素盞嗚尊の妻でその子の宇迦之御魂神が稲荷神です。(絵馬は剣鉾の形です。)

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本殿の左に摂社が並んでいます。「多賀社」(右)は多賀大社の分霊を祀り、縁結び・長寿の神様。「朝日天満宮」(左)は菅原道真を祀る学問の神で天満宮の京洛二十五社の一社。

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「大神宮」 元々青蓮院の坊官の鳥居小路家の先祖は高階師尚といい、その母が伊勢の斎宮であったときに在原業平と密通してできた子供でした。このためお伊勢さんの怒りに触れその子孫が伊勢に参宮しようとしても、病気や災難に遭いできませんでした。

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そこで大神宮を宅地内に祀って参詣するようになったそうです。その後、明治になって当社の境内に遷座され、現在は八幡神と春日神が両脇に合祀されています。

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本殿の左奥にある「出世恵美須神社」 かって三条蹴上の夷谷に祀られていて、源義経が奥州に旅立つとき源家再興の祈願をしたことから、出世恵美須、門出恵美須と呼ばれていました。

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室町時代の山崩れにより社殿が流されて夷町の金蔵寺に遷され、明治初期の1871年にこの地に摂社として遷されました。神像は伝教大師作とされ、家運隆盛、商売繁盛の信仰を集めています。祭りの1月9日から11日の期間にこの神像が公開されます。

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本殿の右手にある「吉兵衛神社」 かっては三条神宮道辺りにあった青蓮院御門の東に鎮座していて、このあたりの土地の守り神です。

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「北向稲荷神社」 創建時期は不明ですが古くからこの地に鎮座して、祭神として雪丸稲荷他三座を祀ります。雪丸稲荷は、平安末期の名刀匠の三条小鍛冶宗近が一条天皇の勅命により剣を打つ際に相槌を打ったとされています。

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宗近はこの稲荷の相槌のおかげで名剣を打ち上げたそうです。そこで、出来上がった剣の表には小鍛冶宗近、裏に小狐と銘を打ったといわれています。(昨日の記事の相槌稲荷明神にも同様の話が伝わっています。)

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「太郎兵衛神社」 青蓮院御門の西に祀られていたいた土地の守り神で、陶芸家の故楠部彌弌氏が信仰していた社だそうです。北向稲荷神社の鳥居の左にある小さな鳥居の奥です。

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拝殿・本殿のまわりを一周しました。祭神や摂社について少し詳しく紹介したのは理由があります。社務所・授与所は参道の坂を登ったところにあります。

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明治の神仏分離令によって、牛頭天王(インド伝来の仏教の神)を祀ってきた天王社、祇園社は祭神を素戔嗚尊と改めました。しかしながら、当時の政府にはばかって、それまで崇めてきた牛頭天王のことに言及している神社はほとんどありません。

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粟田神社の創建由緒には、かって牛頭天王を祀っていたことを隠さず、現在の祭神も素戔嗚尊(牛頭天王)と明記しています。また摂社の由緒についても率直に説明しています。(神楽殿)

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神楽殿には昨年の粟田祭の夜渡り神事で巡行した「粟田大燈呂」の置物が飾ってあります。前にある大燈呂(大行灯)は京都造形芸術大学の京造粟田大燈呂プロジェクトが制作したもので、後ろの干支は氏子たちが製作したものです。

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粟田大燈呂は江戸時代後期の天保3年(1832)以降途絶えていましたが、平成20年(2008)に、粟田神社清々会(氏子)の依頼で、関本徹生京都造形芸術大学教授がプロジェクトを組んで、学生たちと大燈呂を制作して、180年ぶりに復活・再生しました。

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青森県のねぶたのルーツといわれ、京都では珍しい大行灯です。最近では春の東山花灯路で円山公園に前年度の粟田大燈呂が何基か陳列されます。今年の東山花灯路で見た「海の三女神」 日本書紀などに記されている素戔嗚尊の十握剣から生まれた女神たち(宗像三女神)です。

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「能の小鍛冶と稲荷」 粟田口は三条小鍛冶宗近を始め三条派や粟田口五城など数多くの名刀、刀工を生み出してきました。小狐丸という刀の逸話が昨年の粟田大燈呂になりました。鎚を振りかざす宗近と

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背中合わせに、狐に化けた稲荷の神が刀を咥えています。

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2015年の粟田大燈呂には牛頭天王が登場しました。もともと恐ろしい疫病神で、疫病や災難を免れるために、この神を鎮めて祭神として祀ったのです。

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コメント

どんどんお祭りがやってくると
梅雨でも、夏を感じて嬉しくなりますよね。

投稿: munixyu | 2018年6月14日 (木) 14:23

年初に青蓮院に行った時に、いつも素通りしていた粟田神社にようやく参拝しました~。坂道が結構きつくて、ちょっとビックリでしたw
裏山に続く道もあったようですが、朽ち果てた鉄柵で通行止めにしたありました。それにしても。。。いろんな神様がいますね~。牛頭天王、素戔嗚尊の件も含めて、あるがままでいいじゃないか!という感じがして、ごった煮っぽくもあるけど、度量の広さもあって楽しいな~と思いました。

投稿: ばるさろ | 2018年6月14日 (木) 23:07

★ばるさろさん こんばんは♪
この神社もお祭りになると、驚くほど大勢の住民の方が参加します。また、お正月に本殿の左奥にある末社の「出世えびす祭」があって、こちらもかなり賑わいます。神社のHPにそれぞれの末社について詳しく説明があって、それぞれ大切に守っていることが分かります。

投稿: りせ | 2018年6月17日 (日) 01:05

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