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2018年5月23日 (水)

詩仙堂 丈山と初夏の庭園

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

街中ではサツキが満開だったので一昨日詩仙堂を訪れました。ところがこちらはまだチラホラ咲きの段階で、お寺の方によると今週末が見頃だろうということでした。一方で、庭園にはいろいろな花が咲いていました。

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「詩仙堂」は、山号を六六山、正式名称を詩仙堂丈山寺という曹洞宗の寺院で、永平寺の直末寺です。上の「小有洞」という名の山門には石川丈山筆の扁額が掲げられています。

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江戸時代の文人・石川丈山が、寛永18年(1641)隠棲のため建立した山荘で、山際のでこぼこした土地に建つので凹凸?(おうとつか)と名付けられました。

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丈山は安土・桃山時代の1583年三河・徳川家の家臣の家に生まれました。武芸に優れ、関ヶ原の戦い(1600年)で戦功をあげ家康の信望を得ました。(中門を入ると正面に3階建ての本堂、左に書院・庫裡があります。)

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ところが、旗本として出陣した大坂夏の陣(1615年)では、禁じられていた先陣争いをして家康の機嫌をそこね、浪人となってしまいました。叔父の本多正信は何とかとりなそうとしましたが、丈山は髪を切って妙心寺に入って隠退しました。(本堂から前庭)

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そして、儒学者・藤原惺窩(せいか)門下となり儒学を学びました。この頃、文武に優れるとの評判になり、各所から仕官の誘いがありましたが、乗り気ではありませんでした。

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しかしながら病気がちの母を養うために、41歳のとき和歌山の浅野家に仕官し、その後浅野家の転封に従って安芸(広島県)に赴き、そこで13年ほど過ごしました。

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母が亡くなると引退を願い出るも許されず、強引に浅野家を去って京に出て、寛永13年(1636年)に相国寺の近くに睡竹堂を建てて隠棲し始めました。(書院から庭に降ります。)

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その後寛永18年(1641)に、洛北の一乗寺村に適地を見つけ、凹凸?を建て終(ついえ)の棲家と定めました。下は「洗蒙瀑(せんもうばく)」 丈山の作庭時からあり、蒙昧(物事の道理に疎いこと)を洗い流す滝という意味だそうです。

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丈山は、洛東の隠者・木下長嘯子の歌仙堂をまねて小堂を建て、中国歴代の詩人を36人選んで三十六詩仙とし、狩野探幽に肖像を描かせて堂内2階の四方の小壁に9面ずつ掲げました。いつしか、凹凸?は詩仙堂の名で知られるようになりました。

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木下長嘯子は秀吉の正室ねねの甥で、圓徳院の横に歌仙堂があり、産寧坂にある青龍苑はその隠棲の地でした。丈山と長嘯子はともに、戦でしくじって武士を捨て、学芸に生きたという共通点があります。(庭園は三段になっていて、ここは中段です。)

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当初の詩仙堂は現存しませんが、1963年本堂に4畳半の「詩仙の間」が復元されました。本堂の2階には座敷があり、3階には「嘯月楼(しょうげつろう)」があります。かっでは楼上から洛中や大坂城まで眺望できたといいます。詩仙の間は嘯月楼の真下にあります。

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中段の東端にある「鹿(しし)おどし」、添水あるいは僧都ともよばれます。農夫が猪や雀をおどすために考えたもので、この地が山麓にあるので、鹿や猪が庭を荒らすのを防ぐために設けられたそうです。庭の趣向として、丈山が初めて用いたともいわれています。

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丈山は、作庭にも長じたといわれ、桂離宮や東本願寺枳殻邸(渉成園)の庭園は丈山の手が入っていると伝えられています。清浄を好んで、邸内に一葉の塵も落ちていないほどに、隅々まで掃き清めるのを日課としたそうです。それはいまも守られているとか。

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丈山の庵には、林羅山、尾形乾山、霊元天皇などが訪れ、角倉素庵や小堀遠州とも親交があったといいます。(中段の庭に小さな池があり、周囲にいろいろな花が植えられています。)、

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中でも親しく交わったのが、松花堂昭乗と佐川田喜六で、一休寺(酬恩庵)の庭園はこの3人の合作によると伝ええられています。

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後水尾上皇からお召しがあったとき、「渡らじな瀬見の小川の浅くとも老の波たつ影は恥かし」と詠んで断った話はよく知られています。

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丈山は清貧を旨として学問に没頭し、この庵で30数年を過ごして寛文12年(1672年)に90歳で亡くなりました。生涯独身でした。

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丈山没後 詩仙堂は一時荒廃しましたが、丈山の養子・石川十太夫の子・数馬から門人の儒学者・平岩仙桂が受け継ぎました。(向こうに見えるには茶室「残月軒」、1950年代に建てられ、茶席からみる庭園や紅葉が美しいといわれています。)

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残月軒の横にある防火水槽?が天然記念物のモリアオガエルの生息地になっています。木の枝の白い部分が卵です。京都はもともと周辺部に湿地が多く、モリアオガエルの一大生息地だったそうですが、今ではいくつかの寺社の境内で見られるだけです。

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江戸時代後期の1821年、丈山150年御遠忌に際して、建物が修復され、書院が増築、庭園も改修されました。(中段の西端は竹藪になっていて、ここから下段に下りる道が二手に分かれます。)

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昭和3年(1928)、建物と庭園は国の史跡に指定されました。(左の道を行くと、先ほどの洗蒙瀑から流れる小川を渡ります。)

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山の斜面に句碑があります。大正から昭和にかけての俳人・鈴鹿野風呂「さにづらふ  紅葉の雨の  詩仙堂」。

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今回気が付いたのですが、このあたりに4か所小さなお地蔵さんが置かれていました。

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一番奥に「供養塔」があります。信徒の永代供養、宗派を問わず分骨供養としてここに納骨することができるそうです。

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ところで、石川丈山は、鷹が峰の本阿弥光悦、八幡の松花堂昭乗と共に、江戸幕府の意を受けて京中の監視をしていたとの説があります。また、そのような噂が江戸時代からささやかれていたそうです

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下段の西の端に新しく建てられた客殿・座禅堂の「十方明峰閣」があります。閉じられていて近づけないので、もう一つの道を通って書院に戻ります。

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丈山の隠密説は、突然の隠棲、幕府に近い人々と交流がある、詩仙堂の造営費や日々の生活費の収入源が不明であることなどが根拠だそうです。

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ところが、収入については蔵書を売り払ったことや、浅野家から年間2000石もの俸禄をもらっていたといわれています。浅野家は丈山が温泉に行くという口実で去ってしまった後も、まだ療養中であるとして俸禄を払い続けたといわれています。

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浅野家の破格の厚遇も含めて、石川丈山は謎がある人物です。

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本日5月23日(水)は開祖、石川丈山の命日法要のため一般の拝観は休止、庭園のみ自由拝観となるそうです。

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コメント

白い紫陽花、
もう見ごろなのですね。
綺麗な花ですよね。
今年は梅雨も少し早いかもしれません。

投稿: munixyu | 2018年5月23日 (水) 12:10

お地蔵さんきれいに撮れてますね~~!昨年行ったときは影になってしまってうまく撮れませんでした
そういえば昨年の京都検定で凹凸窠が答えの問題が出ましたが。。。もやもやして結局わかりませんでした( iдi )  まぁ「おうとつか」と出てきても漢字が書けなかったと思いますけどw
最近テレビで下り松の近くの和菓子屋さんが紹介されてました。でっち羊羹のお店です。寄ったことはなかったのですが、その羊羹が昔から好きな静岡の羊羹と作り方が同じのようだったので、今度行ってみようと思ってます。洋菓子もあって、今まで入らなくて損してた!って感じです~

投稿: ばるさろ | 2018年5月23日 (水) 23:01

★ばるさろさん こんばんは♪
凹凸窠の窠の字はすぐ文字化けします。もちろん書けません。和菓子屋さんは一乗寺中谷ですね。老舗の和菓子屋さんのお嫁さんがパティシエで、和・洋菓子のコラボが評判です。「でっち羊かん」は昔から一乗寺あたりの名物だったそうで、素朴な味ですね。

投稿: りせ | 2018年5月24日 (木) 01:27

★munixyuさん こんばんは♪
白い紫陽花は少し小ぶりの花でした。おそらく、最後まで白いままなのでしょうね。

投稿: りせ | 2018年5月24日 (木) 01:33

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