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2018年3月 7日 (水)

文子天満宮 天神信仰発祥の地

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

毎年梅が咲くころになると、菅原道真をお祀りする神社を訪れています。そんな神社のなかで、文子(あやこ)天満宮は特別な位置にあります。文子天満宮は七条河原町の近くの渉成園の前の通りを北に行ったところにあります。

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901年、菅原道真は藤原時平の讒言(告げ口)によって大宰府に左遷されました。道真の乳母だった多治比文子(たじひのあやこ)は道真の身を案じ、右京七条二坊の自宅に祠を建てて道真を拝んだといわれています。これが文子天満宮の始まりとされます。

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903年に道真は無念の内に亡くなり、その後都では天変地異、自然災害、疫病などが続きました。道真の政敵・藤原菅根、藤原時平、左遷を命じた醍醐天皇の皇太子保明親王、保明親王の第1王子慶頼王、藤原清貴、平希世、醍醐天皇らは相次いで亡くなりました。

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都ではこれらの異変が道真の怨霊の仕業であると恐れられました。そして、朝廷は道真の死後20年目でしたが、その左遷を撤回して右大臣に戻した上で、正二位の官位を授けました。

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942年、文子は「われを右近の馬場に祀れ」との道真の託宣を受けたといいます。「右近の馬場」は、現在の北野天満宮の南東にあった右近衛府が管轄する馬場で、ここで近衛の官人が毎年五月に競べ馬を行った場所です。

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道真は幼少のころよく遊んだこの馬場に祀って欲しいと託宣したのです。託宣とは、神仏や故人の霊が、人に乗り移ったり夢に現れてその意思を伝えることです。

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しかし、文子の家は貧しくてこの時は社殿を建立することができませんでした。このときに初めて自宅に道真を祀る小祠を建てたという説もあります。

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本殿に祭神として菅原道真、相殿に文子比売(道真の乳母)、伴氏(道真の母)、是善公(道真の父母)を祀っています。学問成就、厄除け、良縁成就などのご利益があるとされています。

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5年後に近江国の神官の7歳の男児にも同じ託宣がありました。それに基づいて朝廷によって天暦元年(947年)北野の地に道真を祀る社殿が造営されました。(境内の南、本殿の左手前に、各地に残されている「文子託宣図」の写真が展示してあります。)

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「文子託宣図」 防府天満宮蔵、松崎天神縁起(1311年、重文)

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「文子託宣図」 北野天満宮蔵、弘安本(1278年、重文)

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「文子託宣図」 前田育徳会蔵、荏柄天神社縁起(1319年、重文)

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後に時平の甥・藤原師輔(もろすけ)が自分の屋敷の建物を寄贈して、北野の社殿は壮大なものになったといいます。本殿の左、社務所の横に「文子殿」があります。

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文子殿では、合格、厄除け、交通安全、安産などの祈祷、初宮詣りなどが行われます。

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門を入った右手(境内の北)に摂社が並んでいます。「白瀧稲荷大明神」は商売繁盛のご利益があるとされます。その隣に御神木があります。

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「相生の御神木」 良い縁成就、夫婦円満のご利益があるとされるオガタマの木です。

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「文子託宣の像」

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「白太夫社」は伊勢神宮神官・渡會春彦を祀り、子授けのご利益があるとか。男子がいなかった菅原是善は、渡會を通じて伊勢神宮に祈願すると道真が生まれました。その縁で渡會は道真の守役として付き添い、大宰府ではその最期をみとったといわれています。

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渡會は若い頃から頭髪が白かったため、白太夫と呼ばれていたそうです。以下の3神を合わせた4つの摂社は、多くの天満宮に祀られています。

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右の「老松社」は島田忠臣を祀り、植林・林業の信仰があります。道真が大宰府で天拝山に登って神に無実を訴えた時、お供をした家臣の島田が松の種を蒔くと多数の松が一夜にして生えたとされます。中央は「福部社」で十川能福(そごうのうふく)を祀ります。

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十川能福は道真の舎人(牛の世話役)で、その名から福の神として開福・招福のご利益があると信じられるようになりました。左は「火之御子社」で火雷神を祀り、古くから雷除け・五穀豊穣のご利益があるとされています。道真自身も火雷神とみなされてきました。

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文子天満宮は、天明の大火(1788年)、安政の大火(1858年)、蛤御門の変(1864年)で焼失しましたが、それぞれ再建されてきました。現在の社殿は大正7年(1918)の建造です。本殿の右手、境内の北西に「北野天満宮遥拝所」があります。

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遥拝所の横にある「菅公腰掛の石」 道真が左遷される際に立ち寄り腰掛けたといいます。いつもコインが神紋の梅鉢紋のように並べられています。

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ところで、942年に道真の託宣を受けた文子が、845年に生まれた道真の乳母だったというのは年齢的に無理があると考えられます。(本殿の裏には「成就社」があり、願いがかなった方がお参りするのだそうです。)

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一方で、多治比家はもともと道真と祖先を同じくする氏族で、その女性が菅原家の乳母を務めることはあり得ると考える人もいます。道真には多くの子供(14人以上)がいて、そのほとんどが都に残されたといい、文子は道真の子供の乳母だったのかも知れません。

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さらに、文子は巫女だった(あるいは後に巫女になった)という説は有力です。北野天満宮の社家である上月家は、文子の子孫ともいわれ、近代まで天満宮の巫女を務め、代々文子と名乗っていたそうです。

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コメント

昔の絵って、どこか風情があっていいですよね。
今の人より絵が上手かったのかも。
写真がなかったからなのかもしれませんね。

投稿: munixyu | 2018年3月 7日 (水) 12:41

★munixyuさん こんばんは♪
文子託宣図のことですか。字が読めない民衆に偉人や仏教の道を教えるための絵は、現代人が見ても分かりやすいですね。

投稿: りせ | 2018年3月12日 (月) 23:35

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