大豊神社と哲学の道(南部)
←目次 2006年1月27日から毎日更新しています。
昨日の記事に続いて、「哲学の道」を南に歩きます。黄色い花は連翹(れんぎょう)のようです。*記事の最後にある「お願い」をよろしく。
「西田幾多郎歌碑」 「人は人吾はわれ也とにかくに吾行く道を吾は行なり 寸心」、昭和56年(1981)に京都東山ロータリークラブ創設25周年記念行事として設置されました。寸心は幾多郎の居士号で、晩年の作だそうです。
「日本の道100選」のプレートのそばに上の歌碑があります。「小径」は昔からある喫茶店で、ここから南にはほとんどお店がありません。
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「大豊橋」は大豊神社の参道になっていて、一の鳥居はもっと西(手前)にあります。
「大豊神社」は、平安時代前期の仁和3年(887)宇多天皇の病気平癒祈願のために、藤原淑子(しゅくし)が勅命を受けて、椿ヶ峰に祠を建てて少彦名命(すくなひこなのみこと)を奉祀したのが始まりとされます。椿ヶ峰は下の写真の背後にある山です。
椿ヶ峰は東山三十六峰の一つで景勝地とされ、藤原淑子の山荘がありました。また、少彦名命は、穀霊、酒造りの神、医薬の神、温泉の神として信仰されてきました。(二の鳥居)

その後、平安時代中期の寛仁年間(1017~1021)に椿ヶ峰の祠は麓のこの地に移されたました。椿ヶ峰からの湧水が二の鳥居の前にある手水舎に流れています。

椿ヶ峰の名の通り、あちこちに椿が生えていて、花びらが飾りとして使われています。近くに椿の寺として有名な霊鑑寺もあります。
藤原淑子は、平安時代前期の承和5年(838)藤原長良の娘として生まれ、右大臣藤原氏宗の後妻となり宮廷に女官として出仕していました。

藤原基経(もとつね)が初めて関白となり4代の天皇に渡って藤原氏が権勢を誇っていた時代でした。本殿は一段高い場所にあり、三の鳥居の左には枝垂桜があります。右には枝垂梅があるのですが、同時に咲いてのを見ることはめったにありません。
872年夫の氏宗が亡くなり、淑子は寡婦となりますが、その後も宮廷に留まり正三位まで昇りました。そして、時康親王(後の光孝天皇)の第七王子・定省親王(後の宇多天皇)を猶子(養子)としました。
藤原基経によって陽成天皇が廃位されたのち、884年に光孝天皇が即位し、淑子は尚侍(ないしのかみ)に任じられました。尚侍とは、天皇の側に仕え臣下が天皇に提出する文書を取り次いだり、天皇の命令を臣下に伝える、現在の秘書のような役職です。
本殿には祭神として、少彦名命(医薬祖神)、および、後に応神天皇(勝運の神)と菅原道真(学問の神)が祀られました。

光孝天皇は16歳で元服して親王となってから、親王が就任する慣例となっている官職のほぼすべてを歴任して親王の筆頭となったときには既に53歳になっていました。

光孝天皇は、基経が陽成天皇の弟で甥でもある貞保親王にいつか天皇を継がすであろうと考え、即位と同時に自らの子女すべてを臣籍降下させ、子孫に皇位を伝えない意向を表明しました。(この枝垂桜は俳優の栗塚旭氏が寄贈した祇園枝垂桜の子孫です。)
しかし、基経は妹の高子と仲が悪く、その子・貞保親王を避けて次の天皇の候補者が決まりませんでした。そのうち、光孝天皇は重病となり、887年子の源定省を親王にもどし、翌日立太子(皇位継承の第一位)させ、同日58歳で亡くなりました。
その日、定省親王が皇位を継ぎ宇多天皇となりました。光孝天皇と宇多天皇の即位は淑子の力によるところが大きく、基経を説得したといわれています。その年、淑子は従一位に昇りました。女性に与えられる最高位で、関白でさえ多くが従一位あるいは正一位でした。
末社の「大国社」 大国主命(おおくにぬしのみこと)を祀ります。大国主命が野火に囲まれたときに窮地から救ったとされるネズミが「狛鼠」となって社を護っています。
淑子は、889年亡夫氏宗の菩提を弔うため。椿ヶ峰の西麓に円成寺を建立しました。この近くであると考えられ、大豊神社は円成寺の鎮守社でもありました。淑子は宇多天皇の養母を務めたため年給を賜ったといいます。

藤原淑子は906年に享年69歳で亡くなり、その後正一位を贈られました。杉本苑子の小説『山河寂寥 ある女官の生涯』は淑子の生涯を描いたものです。
ところで、淑子は夫の氏宗の没後自らも病に苦しみ、宇多天皇の師僧・益信(やくしん)僧正の祈祷によって平癒したといわれています。その恩のため、益信を別当として山荘を円成寺(円城寺とも)に改めたともいわれます。

その後、円成寺には宇多上皇皇子を始め、法親王や藤原氏が相次いで入寺して、仁和寺の院家(大寺院を補佐し、諸法務を行う別院)になりました。(絵馬堂が茶店になっていました。)
円成寺は室町時代の応仁の乱(1467-1477)で被災し、その後は衰微し後に廃寺になりました。廃寺跡には鎮守社の大豊神社だけが残されました。
大豊神社を出て南に歩くと、右には民家が続き、左は山が迫っています。
やがて、哲学の道の右手は崖になり、建物がないので視界が開けてきます。
山側に「宗諄(そうじゅん)女王墓」があります。宗諄女王は、江戸時代の皇族・伏見宮貞敬親王(1776-1841)の王女で光格上皇の養女となり、出家して霊鑑寺の門跡となりました。

明治6年に伏見宮に復帰、13年にふたたび尼にもどり新政府の大教宣布運動に協力して中教正、権大教正を務め、明治23年75歳で亡くなりました。
「京都 閑雲庵」、一棟貸切別荘だそうです。
「昭子内親王の墓」 昭子内親王は、後水尾天皇と徳川家康の孫娘・和子(東福門院)の間に生まれた第3皇女です。生涯独身で主に女院御所内の両親のそばで過ごしました。出家はしませんでしたが仏道へ傾倒し、両親に先立ち47歳で亡くなりました。
かってこの下に栗塚旭氏が経営する喫茶「若王子」がありました。近くの熊野若王子神社は、明治以前は神仏習合した「若王子乗々院」という名で、その本尊・観音菩薩は観音霊場巡りの札所だったそうです。「若王子観音」の石標は当時のものと思われます。
哲学の道の南の橋にある道標。後ろは熊野若王子神社です。
若王子橋から

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