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2018年3月 6日 (火)

智積院 その歴史と梅咲く境内

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

梅が咲き始めた智積院に行ってきました。「智積院(ちしゃくいん)」は正式名所を五百仏山根来寺(いおぶさんねごろじ)智積院という真言宗智山派の総本山です。下は東山七条にある「総門」で、江戸時代に御所の東福門院より移築しました。

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真言宗智山派は、成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高尾山薬王院を大本山、東京都の高幡山金剛寺と名古屋市の大須観音寶生院を別格本山として、全国に3000余りの寺院と約30万人にのぼる檀信徒を有する宗派です。下は「冠木門」。

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真言宗の宗祖・弘法大師空海の没後(835年)からおよそ260年、興教(こうぎょう)大師覚鑁(かくばん)が高野山に大伝法院(だいでんぼういん)を建て、荒廃した高野山を復興、真言宗教学の振興に努めて、中興の祖となりました。

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その後の1140年に、覚鑁は修行の場を高野山から同じ和歌山県の根来山(ねごろさん)へ移し、ここを根本道場としました。

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鎌倉時代の中頃、頼瑜(らいゆ)僧正が大伝法院を高野山から根来山へ移しました。 これにより根来山は、学問の面で栄え、最盛時には2900もの坊舎(僧侶の宿舎)と、約6000人の学僧を擁するようになりました。下は後で出てくる玄宥僧正の像。

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智積院は、その数多く建てられた塔頭寺院のなかの学頭寺院でした。学頭寺院とは、僧侶に学問を授ける最高指導者(今の学校長)が所属する寺院です。下は「戦没英霊供養之塔」

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戦国時代になると、根来山には土豪の子弟で寺務に関わる行人を多く抱え、次第に武力を蓄えます(根来衆)。秀吉と織田信雄・家康が戦った小牧・長久手の戦いでは、家康側に加担しました。下の金堂は智積院の中心的な建物で、本尊の大日如来像を祀ります。

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その後家康と和睦した秀吉は、1585年に報復として10万の兵で根来山を攻め、その堂塔のほとんどが灰燼に帰しました。その時、智積院の住職・玄宥(げんゆう)僧正は、高野山に難を逃れ、秀吉没後の1598年に京都東山で智積院の再興を始めました。

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関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1601年豊国神社境内の坊舎と土地を玄宥僧正に与え、名実ともに智積院が再興されました。さらに、1615年に大坂夏の陣で豊臣氏が滅び、隣接地にあった祥雲寺の寺地が智積院に与えられその規模が拡大しました。

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当時の主要な建物が祥雲寺のものであったことから、寺紋が桔梗紋になったとされます。祥雲寺は秀吉が3歳で死去した愛児鶴松の菩提のため、加藤清正に命じて建立、その功績のため清正の家紋が祥雲寺の寺紋になっていました。(金堂の左手に向かいます。)

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江戸時代前期になると運敞(うんしょう)僧正が宗学をきわめ、智山教学を確立しました。そして、智積院には学侶が多く集まり学山智山とも称され、優れた学僧を輩出しました。学侶とは祈祷や学問修法に専念する僧侶の身分の一つです。

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1705年には桂昌院(徳川綱吉の生母)より与えられた金千両を基に金堂が建立されました。

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「大師堂」 弘法大師空海の尊像を安置しています。江戸浅草の宝持院真融の寄付金三百両を基金に、役寺の愛宕円福寺の胎通と真福寺の純雅が尽力して費用を用意し、胎通が智積院第24世に就任中の1789年に落成しました。

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明治時代になると廃仏毀釈の波を受け智積院も困難な時代を迎えました。明治2年(1869)には、土佐藩の陣所となっていた教学研鑚の根本道場・勧学院が爆発炎上、明治15年(1882)には一山の象徴・金堂が焼失しました。(向うは金堂の東北にある光明殿)

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廃仏毀釈の動きも終焉した明治33年(1900)に、智積院を中心に活動していた全国の約3000の寺院が結集して、智積院を総本山と定めました。(金堂の裏の紫陽花苑に来ました。)

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紫陽花苑の東の斜面に平成3年に整備された「学侶墓地」があります。江戸時代前期に智山教学が確立され、以後全国から学侶が智積院に集まりました。

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約20年の修行を通じて、智山教学だけでなく宗派の隔たりなく他の仏教も学ぶことができるとして、江戸時代中期の元禄・宝永年間には1600人以上の学侶が所属しました。

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当時、朝粥をすする音が七条大橋まで響いたともいわれています。その頃、智積院で修業し、こころざし半ばで亡くなった方々は地蔵山に葬られました。その墓石群をこの地に遷して聖域として整備したのがこの学侶墓地です。

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智積院では、毎朝の諸堂参拝の折にこの墓地に参拝して学侶らの霊を弔うとともに、自らの修行成就を祈念しているそうです。

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金堂の周りを一周して、南の方に向かいます。

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「明王殿」 不動堂とも呼ばれ、本尊として不動明王を祀ります。京都十三仏霊場めぐり第1番、近畿三十六不動の一つです。ここにも桔梗紋があります。

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建物は、かって四条寺町にあった浄土宗の名刹・大雲院が東山に移転する際、その本堂が譲渡されたものです。大雲院は信長の菩提を弔う寺で、現在ねねの道にあり、敷地には祇園閣もあります。

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終戦後に智積院は徐々にその堂宇を拡充整備して、昭和41年(1966)に智山派全檀信徒の浄財で宿泊施設として智積院会館が建設されました(冠木門の南にあります)。現在宿坊として一般の方も利用できます。

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希望すれば僧侶や修行僧とともに朝の勤行や護摩供法要に参加することができます。平成30年12月13日から新築工事のため業務が停止される予定です。

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「鐘楼」 豊国神社から移築されたもので、鐘楼は江戸時代の1667年建立、梵鐘は1616年鋳造(京都府指定文化財)。

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金堂前の参道の途中にある「名勝庭園」 秀吉が建立した祥雲寺の時代に原型が造られ、利休好みの庭ともいわれています。最近保存・修理工事が終了したはずですが、今回は入りませんでした。右手には寺宝を納める収蔵庫があります。

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安土桃山時代に長谷川等伯らによって描かれ、祥雲寺の客殿を飾っていた「楓図」「桜図」「松と葵の図」「松に秋草図」など国宝の金碧障壁画が収蔵されています。

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コメント

梅は一本一本みんな趣きが違うので面白いですよね。
桜より趣きの種類は多いのかもしれません。

投稿: munixyu | 2018年3月 6日 (火) 10:59

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