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2018年3月11日 (日)

北野天満宮 道真と時平

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

梅が見頃とのことで、北野天満宮に行ってきました。「北野天満宮」は、菅原道真を祭神として祀る全国約1万2000社の天満宮、天神社の総本社です。

参道の途中にある「伴氏(ともうじ)社」 菅原道真の母を祀り、彼女が大伴氏の出身だったのでこの名で呼ばれています。誠実で優秀な学者を育てたことにちなんで、子どもの成長と学業成就を願う母親に信仰されているとか。

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平安時代中頃の947年、西ノ京に住んでいた多治比文子(たじひのあやこ)や近江国比良宮の神主・神良種(みわのよしたね)、北野朝日寺の僧・最珍らが当所に神殿を建て、道真を祀ったのが北野天満宮の始まりとされます。

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楼門の左手前に昨年12月に完成した「文道会館」があります。1階には300人が収容できる多目的ホールや社務所、2階には貴賓室を設け、展覧会や講演会など、情報発信の拠点として利用されています。


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楼門にはいつも道真の歌がかかげられています。「美しや紅の色なる梅の花  あこが顔にもつけたくぞある」、道真が5歳のときに菅原院の庭に咲いている梅を詠んだ歌で、「あこ」は道真の幼名だそうです。

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今年になってから、いずれも道真を祀る神社の始まりとされる、水火天満宮、文子天満宮と菅大臣神社を記事にしてきました。道真が藤原時平の諫言によって大宰府に左遷させられ、無念の内に亡くなったことが、これらの神社が創建されたきっかけとなっています。

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今日は、藤原時平の人物と諫言事件の背景について少し紹介します。楼門から参道は一筋西にずれ、両側に道真ゆかりの四つの摂社が並んでいます(説明はありません)。

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藤原 時平(871-909)は、平安時代前期、摂政関白太政大臣・藤原基経の長男として生まれました。基経は陽成天皇を廃して光孝天皇を擁立、太政大臣として朝政を執り絶大な権力を持ち、光孝天皇は常に基経の意に従っていました。「福部社」

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886年に時平は16歳で元服、光孝天皇は宮中でも最も重要な仁寿殿で盛大な式を行わせ、自ら加冠の役を果たし、正五位下を授けました。翌年には早くも従四位下・右近衛権中将に任じられ、同年に宇多天皇が即位すると蔵人頭に補せられました。「老松社」

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宇多天皇は先帝に引き続いて基経を関白に任じますが、その詔にあった「阿衡」の文字を巡って紛糾しました。最後は基経が天皇に自らの誤りを認める詔を出させ、藤原氏の権勢を示しました。この阿衡事件は宇多天皇と藤原氏との間でしこりとなりました。

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その後も、890年従四位上、従三位と昇り20歳で公卿に列せられました。891年に父・基経が死去しましたが、時平はまだ21歳と若年のため摂関には任じられず、宇多天皇の親政となりました。また、藤原氏長者は大叔父の右大臣・藤原良世がなりました。「火之御子社」 

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天皇は時平を参議としましたが、同時に源氏も参議に起用して藤原氏を牽制、893年には菅原道真を起用しました。道真は優れた学者として知られ、阿衡事件では、基経がなおも橘広相の流罪を求めたときに上書して諫言しました。「三光j門」

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しかし、藤原北家の嫡流である時平が排斥されることはなく、その後も、時平は893年中納言兼右近衛大将、897年正三位・大納言兼左近衛大将に任ぜられるなど順調に昇進しました。回廊の右半分は工事中です。

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897年に宇多天皇は譲位して醍醐天皇が即位しました。その際、宇多上皇は「時平は功臣の子だが、年若く素行が悪いので、顧問を設けてよろしく導くべきである」と申し送ったといいます。本殿の左手前に伝説の「飛梅」があります。

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醍醐天皇は権大納言の道真を起用して、時平とともに内覧を任せました。この年、前年の藤原良世の引退によって空席となっていた藤氏長者に時平を補しました。899年時平は左大臣に任ぜられましたが、同時に道真も右大臣となり太政官の首班に二人が並びましだ。

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時平は東西随一の秀才といわれましたが、感情に流されることも多く、笑い上戸で仕事ができなくなった話もあります。まじめな学者の道真と開放的な性格の時平は気が合わず、時平は情に任せて裁決に誤りが多いとして、道真が異を唱えて対立するようになりました。

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道真は後ろ盾の宇多法皇を何度も訪ねて相談し、法皇は天皇に道真に政務を委ねるよう助言しました。醍醐天皇は時平を信頼していましたが、時平の心中は穏やかではなかったといわれています。回廊の右手に出ます。

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901年時平は大納言・源光と謀り、「道真は大臣に取り立てられた恩義を忘れ、醍醐天皇に代わる天皇を立てようと企んでいる」と諫言して、醍醐天皇はこれを信じて道真を大宰員外帥に左遷しました(昌泰の変)。「竈(かまど)社」

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醍醐天皇に代わる天皇とは、橘広相(ひろみ)の娘を母とする第3皇子の斎世(ときよ)親王のことで、道真にとっては近い立場にある人物です。「手水舎」

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多くの人々はこの事件は冤罪だと考えていますが、「寛平御記」には、醍醐天皇が側近の藤原清貫に道真の様子を見てこさせたとき、「左遷させられた理由は、自分で企てたことではないが、源光の誘いを断りきれなかった」と語ったという話が載っています。

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901年、道真が失脚した直後、時平は妹の穏子(おんし)を醍醐天皇の女御として入内させ、翌902年彼女は醍醐天皇の第2皇子・保明(やすあきら)親王を産み、その翌年早くも皇太子(皇位継承の筆頭)となりました。「文子天満宮」

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醍醐天皇が譲位して保明親王が皇位につけば、時平は摂政・関白の地位に就くことが想定されました。しかしながら、907年時平は39歳で亡くなり、藤原北家の嫡流は(仲がよくなかった)弟の忠平とその子孫に移りました。

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時平は、自らが(荘園を特権的に支配する)権門勢家の頭領だったにも関わらず、荘園整理令を出すなど進歩的な施政に取り組み、有能な政治家だったと考えられています。

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しかし、時平が政治の実権を握った期間は短くその能力を発揮せずに亡くなりました。兄弟がみな60~70歳の長寿だったのに若死にしたこと、皇太子の保明親王も道真の死後20年目に亡くなったことも、道真の怨念の仕業だと信じられた理由です。「地主社」 

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時平の諫言事件は、藤原氏の摂関政治と、それに対抗して他の勢力を利用して朝廷の実権を取り戻そうとする勢力の間で起こった事件でもあります。しかし、藤原氏の摂関政治はまだ続き、約100年後の藤原道長のときに頂点を迎えます。

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本殿の真後ろの「御后三柱(ごこうのみはしら)」は、道真の祖神の天穂日命、祖父の菅原清公、父の菅原是善を祀っています。かっては、天満宮の参拝はこの裏の社も含めて礼拝するのが作法でした。

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境内の北西の隅に合格祈願の絵馬掛所があります。かっては本殿の前の広場の目立つ場所にあったのですが、少子化や受験戦争の緩和などからスペースが小さくなりました。

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コメント

北野天満宮は、いつも満員ですね。
梅もどんどん咲いて、今からさらに満員になっていくのでしょうね。

投稿: munixyu | 2018年3月11日 (日) 11:40

今年は梅花祭に行きました。
なんかアニメ?コラボとかで、お子ちゃまが多く、御朱印がテントの中の筆ペンで日付だけ入れたハンコでした。
ちゃんと りせさんの過去記事検索して予習したのですが、今年はより詳細な紹介!
新しい会館ができていたの知らずに通り過ぎました。

初めて梅のライトアップを見たのですが、蕾が多いのと、小雨だったのとで、早々に宿に帰りました。

4月は今まで避けてきた醍醐寺に行くので、その周辺の寺社を りせさんが投稿していないか探しています♪

投稿: ゆっこ | 2018年3月12日 (月) 20:34

★ゆっこさん こんばんは♪
御朱印を集めていらっしゃるのですね。私も始めかけたのですが、いつも頂くのを忘れて長続きしません。醍醐寺の桜はさすがですよ。今日の天気予報では、桜の開花が早まり3月下旬になりそうだといっていました。

投稿: りせ | 2018年3月12日 (月) 23:57

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