渡月橋から嵐山公園へ 2018冬
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昨日嵐山に行ってきました。今回はいつもは見落としがちな史跡を見ながら歩きました。*手違いがあって記事の更新が遅れました。
渡月橋北詰のレンタサイクル屋さんの横に鳥居があります。その路地の奥に「大井神社」があり、駒札によると、大堰川の守り神、商売繁盛の神として古来住民の信仰が厚く、秦氏や角倉了以も帰依したとのことです。
創立年は不詳ですが、延喜式神名帳(927)や三代実録(876)に記載があり、おそらく秦氏の葛野大堰(かどのおおい)造営(5世紀後半)の際に治水の神として祀られたものと考えられています。
古来この桂川は暴れ川で、梅雨時期や台風シーズンには、きまって洪水を引き起こし、流路もそのたびに変わりました。しかし、暴れ川のお陰で、その流域は京都盆地でも最も肥沃な土地でした。
5世紀後半、秦氏が葛野地方に移り住み、この付近で桂川の流れをせき止める大きな堰を築き、水路を引きました。その工事によってようやく農業用地として利用できるようになり、様々な産業も発達しました。(右の石柱は「史跡名勝嵐山」、左は「大本山大覚寺」です。)
渡月橋のたもとに「琴きき橋跡」の石標があります。平家全盛の平安時代最末期、高倉天皇が琴の名手で京都一の美貌といわれた小督(こごう)を寵愛しました。しかし、高倉天皇の中宮は平清盛の娘徳子で、小督のことを知った清盛は大変怒りました。
平家からの圧力は凄まじく、小督は自分の身が危ういことより、高倉天皇に災いが降りかかることを恐れ、宮中を去り嵯峨野に隠れてしまいます。高倉天皇は、小督がいなくなったことを深く悲しみ、源仲国(なかくに)に小督を捜すように命じます。
仲国は名月の夜なら琴を弾いているかも知れないと考え、千代古道をたどり嵯峨野辺りまで馬を走らせました。法輪寺近くに来ると、かすかな琴の音が聞こえ、それは『相夫恋』という帝を想い奏でる曲でした。仲国はその家を訪ねて小督に再会します。
ここは「嵐山公園 中之島地区」で松や桜が多く、春は花見客でにぎわいます。ロータリークラブやライオンズクラブはこの公園の整備や桜の植樹をしてきました。下はロータリークラブ創立25周年記念の街灯と西北ロータリークラブ創立10周年の記念プレート。
休憩所の近くに小さな日本庭園が造られ、光悦寺垣がありました。この由来は分かりません。
「祇園枝垂桜」 若い木ですが昨年の春には綺麗な花が咲いていました。
中之島の東端にある「日中不再戦」の碑 昭和43年(1968)に盧溝橋事件30周年を記念して、日中友好協会京都府連によって建立、清水寺貫主・大西良慶の揮毫です。この年には米軍によるベトナムのソンミ村虐殺事件が発生、米国内でも反戦運動が激化しました。
碑文には、日本・朝鮮・中国・ベトナムなどアジア諸民族は固く団結し、再びアジアを戦場としない決意が書かれています。下も桂川の流れで、右には中之島にある料理屋の座敷が並んでいます。向うに保津川下りの船着場があり、船を吊り上げて陸路亀岡に運びます。
こちらはロータリークラブ創立100周年記念の方位案内盤、対岸も嵐山公園で臨川寺地区と呼ばれています。
枝垂れ桜の根本に京都嵯峨野ラインズクラブ結成十周年記念として建てられた「句碑」があります。ただし、字が上手すぎて句が読めません。
嵐山公園を出て中之島の西端近くに「一ノ井堰(洛西用水)」の説明版があります。5世紀末に造られた堰は嵐山の景観を作り、ここで取水した洛西用水は下流で枝分かれして、現在も田畑を潤し、米や京野菜を育んでいるそうです。、
小橋も渡ると法輪寺への近道があります。「舞台入口」と書いてありますが、山門からの石段の途中に出ます。左の「渡月亭」は温泉旅館で、向かいにも座敷があります。
向うの「花筏」も温泉旅館です。どちらも露天風呂があり、それらの「嵐山温泉」の湯は、単純泉(低張性弱アルカリ性温泉)のとろみのある柔らかな肌触りで、神経痛、筋肉痛、関節痛、 五十肩、浸性消化器病などにも効能が期待できるとされています。
小橋のたもとに三つの石標があります。左は大悲閣・・、中央は西芳寺、右はたんばみち(丹波街道、左)とあたごみち(愛宕街道、右)と書いてあります。
星のや京都の送迎船の受付
少し右岸を遡ると、見逃してしまいそうな「駒留橋」があります。櫟谷(いちたに)という小さな谷から流れる川にかかっていて、かって神社の神職が馬をつないだとされます。また、仲国が小督の琴の音を聞くために馬を留めた場所ともいわれます。
「櫟谷宗像神社(いちたにむなかたじんじゃ)」は昨年12月に記事にしたばかりです。こちらは現在は松尾大社の摂社になっていますが、やはりこの川の守護神として祀られています。神社の境内に嵐山モンキーパークの受付があります。
「露営の歌」の碑 露営の歌は「勝ってくるぞと 勇ましく・・・」で始まりますが、銃弾が行きかう露営の中で死んでゆく戦友や残した家族を思う哀愁がある歌です。昭和12年(1937)に日中戦争が勃発、毎日新聞が戦意高揚のために「進軍の歌」の歌詞を公募しました。
上の歌は、佳作第一席に入選した歌詞に古関裕而が作曲して『露営の歌』と曲名が改められたものです。二つの軍歌は日本コロンビアからレコードが発売されましたが、B面の露営の歌がA面をしのぐ人気となり、当時としては珍しい60万枚の売り上げとなりました。
作詞の薮内喜一郎氏は京都市役所に勤務していて、友人の毎日新聞記者・岸田正三氏が提唱、京都嵐山保勝会と右京区在郷軍人会連合分会が音頭をとって、翌年この場所に記念碑が建てられました。
さらに遡ると「蔵王大権現」という扁額の鳥居があります。いつも気になっていたので、この日は上ってみようと思ったのですが、途中で道がなくなり斜面にロープが張ってあるだけで、危険なので引き返しました。
後で調べると、蔵王大権現は嵐山一帯の守護神で山の頂上付近にあり、南からの稜線沿いにもっと行きやすい道があるそうです。
再び小橋と渡月橋を渡って天龍寺の方に向かいました。
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コメント
いいところですね。
どこに行っても楽しいのが京都のいいところです。
京都は、全部が全部、名所ですよね。
投稿: munixyu | 2018年2月13日 (火) 13:26
★munixyuさん こんばんは♪
花や紅葉がない殺風景な季節ですが、嵐山は昔から景勝の地とされてきただけのことはありますね。
投稿: りせ | 2018年2月14日 (水) 23:30