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2018年2月12日 (月)

福王子神社 班子女王と氷室

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の西向寺を出て、久しぶりに福王子神社を訪れました。周山街道の福王子交差点を見下ろす場所にある神社は、夕日に照らされて赤く染まっていました。

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平安時代前期の900年、光孝天皇の后で、宇多天皇の母・班子(はんし)女王が亡くなり、その陵墓の地に女王を祀る神社として創建されたといわれます。神社名は班子女王が多くの皇子、皇女を生み、福王神、福王子宮と呼ばれたことに由来します。(拝殿)

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近隣の旧6ヶ村の氏神であるとともに、光孝天皇の勅願により建立が始まり、その遺志を継いだ宇多天皇により888年に完成した仁和寺の鎮守神でもあります。

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室町時代の1468年に応仁の乱で焼失しました。江戸時代前期の1664年、3代将軍・徳川家光の寄進によって社殿が再建されて現在に至っています。

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末社の「夫荒(ぶこう)神社」(松尾大明神)は夫荒神を祀ります。平安時代に山中の氷室(氷の貯蔵庫)から宮中へ氷を献上する習わしがあり、その運搬の際に命を落としたものたちの霊を祭り、安全を祈願するために設けられたとされます。

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当時は都の近くに6か所も氷室があり、800人の役人と役夫によって毎日500~800kgの氷が宮中に届けられたといわれています。酷暑の中で重い氷塊を運ぶ作業は過酷で、役夫や馬が犠牲となることもありました。

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宮中に運ばれた氷は様々なものを冷蔵するために用いられたほか、現代のかき氷ののようにして食されていました。周山街道の杉坂口から山に入ったところにある氷室の里には今も氷室跡や氷室に携わった人々を祀る氷室神社が残っています。

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そのような氷が高嶺の花の庶民が、白外郎に大豆をのせ三角に切って氷菓子に見立てたのが、夏の京菓子「水無月」の始まりといわれています。末社の手前のさざれ石は年々大きくなっているとか。

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光孝天皇は当初即位する可能性がなく、その妃となった班子女王は四男四女をもうけました。しかし、当時摂政として権勢をふるっていた藤原基経が、次期の天皇として指名したのが、すでに50歳を過ぎた光孝天皇でした。

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光孝天皇は基経の意を忖度して、関白という役職を作って基経を任命し、政治の実権をゆだねました。摂政は天皇が女性や子供、病気の場合にその補佐をする役職でした。さらに、子供たち全てを臣籍降下(皇族ではなく)して、皇位に就かせない意思を示しました。

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しかし、光孝天皇は後継を指名せずに887年に亡くなりました。その死の直前、関白藤原基経は、仲が悪かった妹藤原高子の子で、陽成天皇の弟であった貞保親王が皇位に就くことを嫌い、臣籍降下していた定省親王を皇族に復帰させ、即日宇多天皇となりました。

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即位した宇多天皇は20歳たったので、藤原基経に再び関白に就くように左大弁橘広相が起草した勅書を送りました。しかし、その文言が気に障った基経は政務を拒んで自邸に引き籠もってしまい、天皇は勅書を取り消し広相を解任するという事件が起こりました。

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891年に基経が死去すると、宇多天皇はようやく親政を開始することができ、基経の嫡子・時平を参議にする一方で、源能有など源氏や菅原道真、藤原保則など藤原北家嫡流から離れた有能な人物を抜擢しました。

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この期間に遣唐使の停止、諸国への問民苦使の派遣、昇殿制の開始、日本三代実録・類聚国史の編纂、官庁の統廃合などが行われました。また、寛平御時菊合や寛平御時后宮歌合などを催し、多くの歌人を生み出す契機となりました。

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宇多天皇は897年に突然皇太子敦仁親王を元服させて、即日譲位して醍醐天皇が誕生しました。その理由は、以前は仏道に専念するためといわれていましたが、近年では藤原氏からの政治的自由を確保するためという説が有力となっているそうです。

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醍醐天皇は、菅原道真を権大納言に任じ、大納言で太政官最上席だった藤原時平の次席として、時平と道真の双方に内覧を命じ、朝政を二人で牽引するよう命じましたまし。こうして、班子女王は皇后から皇太后、太皇太后となり、次第に発言力を増してきました。

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897年に醍醐天皇に娘・為子内親王を入内させ、藤原時平による妹・穏子の入内を拒み続けました。仁和寺で出家し御室に過ごし、900年に68歳で亡くなりました。穏子が入内を果たしたのは班子女王の没後です。

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翌年、時平は大納言・源光と謀って道真を讒言、醍醐天皇はこれを信じて道真を大宰府に左遷、道真は2年後に大宰府で病死しました。しかし、時平も早死にして、宮中や都に異変が続いたことが道真の怨霊とされ、道真はやがて復権することになります。

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福王子神社の秋期大祭では、神輿巡行の神事が行われ、神輿に祭神・班子女王を乗せて、仁和寺勅使門より参内します。(下は以前の仁和寺の写真で、勅使門から人が入ってくるのを始めて見ました。)

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宸殿の前で奉幣を受ける儀式が現在でも続けられています。

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班子女王と宇多天皇、福王子神社と仁和寺の関係がよくわかる行事です。最後に、仁和寺門跡と福王子神社宮司が挨拶をしています。

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1973年、寛永期に再建されたの本殿(春日造、銅板葺、附棟札)、石燈籠2基、拝殿(入母屋造、銅板葺)および鳥居(石造、明神鳥居)が国の重要文化財に指定されました。(中央はその記念碑、左の石標には祭神班子皇后と刻まれ、右に神輿庫があります。)

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コメント

寒椿。
病院にも咲いてますが、力強くて可憐。
いい花ですよね。

投稿: munixyu | 2018年2月12日 (月) 18:48

なかなか立派な神社!でも初めて知りました。。
場所を確認して納得!竜安寺~仁和寺を合わせて拝観することはありますが、ここまで足を延ばすことはあまりないですからね~。この辺りは寺社はそんなにないんだろうと勝手に推測してましたが、地図を確認すると結構ありますね!今度行ってみよう。。
夫荒神という神様はここだけかもしれないですね。ネットにはあまり情報がありませんでした。。役夫の荒魂ってことで夫荒神ってとこでしょうか。。ぶこうじんが訛ってぶこーじん、ふこーじ、ふくおーじとなったって情報もありましたが、福王子宮を祀る時に名前も似ているので、これも何かの縁。。ってな感じで合祀されているかもしれないですねぇ

投稿: ばるさろ | 2018年2月13日 (火) 22:41

★munixyuさん こんばんは♪
今の季節はあまり華やかでないので、寒椿は貴重な存在です。

投稿: りせ | 2018年2月14日 (水) 23:12

★ばるさろさん こんばんは♪
いつもはバスの窓から見ている福王子神社ですが、久しぶりに訪れました。「夫」は肉体労働者を指す言葉のようで、おっしゃるようにその荒神が夫荒神ということだと思われます。それがなまって福王子になったというのは、もっともらしくて面白い話ですね。

投稿: りせ | 2018年2月14日 (水) 23:23

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