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2018年2月 8日 (木)

本法寺 日親と本阿弥家

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の小川通に面して本法寺の仁王門があります。江戸時代に建立され、両脇に那羅延(ならえん)金剛、密遮(みっしゃく)金剛の金剛力士像が安置され、宝鏡寺宮筆の玄額「叡昌山」がかかっています(京都府有形文化財)。

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「本法寺」は、山号を叡昌山(えいしょうざん)という日蓮宗京都16本山の一つです。仁王門を入ると右手に「大魔利支尊天社」があります。

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室町時代中期の1436年に、本阿弥清信が日親上人を開祖にして、東洞院綾小路に創建したのが始まりとされます。清信は刀剣の鑑定士として将軍に仕え、本阿弥光悦の曾祖父にあたります。下は「本堂」


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現在の本堂は江戸時代後期の1797年に建立され、以下の建物の多くは京都府有形文化財です。本堂には光悦筆の扁額「本法寺」がかかり、本尊「法華題目牌」、「釈迦如来像」、「多宝如来像」、「日親上人坐像」を安置しています。

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日親(1407-1488)は上総国に生まれ、1427年に上洛して日蓮宗(法華宗)の布教を始め、後に中山門流の総導師として九州・肥前で布教活動を行いました。しかし、激しい性格だったようで、1437年には厳しい折伏により門流を破門されました。「鐘楼」

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1439年には将軍・足利義教の屋敷へ赴き、「世の中が乱れているのは法華経を信仰していないから」と諌暁(かんぎょう、日蓮宗への改宗)を迫りました。本堂の右手に日親が辻説法を行ったとされる「説法石/清明石」があり、安倍晴明の館にあったともいわれます。

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驚いた幕府は諌暁を禁止しましたが、日親は諦めず身命を賭けて諌暁書「立正治国論」を提出したため将軍の怒りに触れます。翌年投獄され、1436年に創建したばかりの本法寺を焼かれました。下は「開山堂」。

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1441年赤松満祐の謀反で足利義教が暗殺されると日親は赦免されました。赦免後、同じく投獄され日親への帰依を深めた本阿弥清信により本法寺が再建され、後に寺は本阿弥家の菩提寺となりました。本堂の正面にある「叡昌松」。

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日親は後の1463年にも投獄されました。そのときは、焼いた鍋を頭に被せる酷刑を受け、赦免後に鍋が外れないまま布教を行い、「鍋かぶり日親」と称されたといわれています。本堂の左手前に「光悦手植えの松」と「光悦像」があります。

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「多宝塔」 寺の伽藍のほとんどは1788年の天明の大火により焼失し、その後、紀州家などの寄進により再建されたものです。本堂の裏(西)にある庫裡に向かいます。

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1536年には比叡山衆徒による洛中洛外の日蓮宗21寺を襲った「天文法華の乱(天文法難)」が起こり、寺は焼かれて堺に一時逃れました。1542年後奈良天皇より勅許が下り、天文年間(1532-1554)に一条戻橋付近に本法寺が再建されました。拝観入口の「庫裡」

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宝物館の前庭は「十(つなし)の庭」と呼ばれますが、石は9つしかなくもう一つの石は見る者の心中にあるとか。沙羅の木が植えられ、向うの建物は祖師堂です。

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10まで数字を数えるときに、十(とう)だけは「つ」を付けないので「つなし」と読むのだそうです。正面は唐門で向う側に説法石があります。

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安土・桃山時代の1587年、豊臣秀吉の聚楽第造営に伴い本法寺は現在地に移転しました。その際、10世・日通は寺領千石の寄進を受け、本阿弥光二・光悦父子も私財を投じて再建に尽力しました。

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宝物館には安土・桃山時代の絵師・長谷川等伯による紙本濃彩図「釈迦大涅槃図」(重文)があります。等伯は日通と親交があり、26歳で急逝した息子・久蔵の7回忌(1559年)に寄進したもので、京都三大涅槃図(他は東福寺、大徳寺)のひとつとされます。

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沙羅双樹の下で入滅する釈迦と、その周りに集まった羅漢や動物たちを描いています。釈迦の左の木の陰にいる緑の衣の人物は等伯自身だといわれています。写真はパンフレットからの転載で、特別公開の期間以外は複製を展示しています。

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拝観順路に沿って書院の方に向かいます。

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1599年に本堂が再建され、長谷川等伯が本堂に龍図を描きました。江戸時代には後水尾天皇、水戸藩の徳川光圀、紀州徳川家の庇護を受け寺は興隆しました。日蓮宗の上方三山の一つになり、末寺34を数えたといいます。「光悦垣」

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書院の南に光悦が作庭したという「蹲踞(つくばい)の庭」があります。

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庭には光悦作の蓮弁模様の蹲踞が据えられています。

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書院の前庭は光悦作庭とされる「三つ巴の庭」あるいは「巴の庭」と呼ばれる書院式枯山水庭園です。庭の中央の向こうに横筋が入った丸石、こちらに蓮池があり、宗祖の「日」と「蓮」を表しています。

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三巴とは、3つの築山が中国の神仙・蓬莱思想の神仙島を表し、それぞれが巴形(渦巻き)に見えるからです。古代中国の伝説では、渤海(ぼっかい)湾中に、蓬莱山、方丈山、瀛洲(えいしゅう)山という三つの神仙(島)があったとされます。

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神仙には仙人が住み、不老不死の神薬があると信じられ、後に道教が生まれる背景となりました。中央の巴には滝石組による三尊石が置かれ、枯川が蓮池に向かっています。

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日本にもたらされた神仙・蓬莱思想は、永遠の理想郷を求める絵師や書家、工芸家、庭師など芸術家の重要なテーマになりました。長年の風雪によって巴の形は分かりづらくなっていて、特に左の巴は起伏がほとんどありません。

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三巴の庭は江戸時代の『都林泉名勝図絵』にも光悦作庭として載っていて、1972年に中根金作により修復、1986年に国の名勝に指定されました。

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本阿弥家は本法寺の近くの上京区実相院町にありました。初め男子がなかった7代当主光心の婿養子になった光二は、光心に実子が生まれたので本家を退き別家を立て、光二の嫡男として生まれたのが光悦です。

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分家も刀剣業を家職とし、その製作は木工、金工、漆工、皮細工、蒔絵、染織、螺鈿などの総合芸術ともいえるものでした。さらに、父が分家であったことから、光悦は自由に学者や他の美術工芸家と交流することができ、高い教養と芸術性を得ることになりました。

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光悦が徳川家康から鷹峯の地を拝領して、一家で移住して芸術村を造ったのは彼が晩年になってからです。(上の写真は堀川通に面する門柱です。)

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コメント

十(つなし)の庭、これは知らないと読めないですよね。
難読漢字は、わからないとどうしようないです。
十(つなし)、よく覚えておきます。
十つじゃないから、つなしですね。

投稿: munixyu | 2018年2月 8日 (木) 10:47

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