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2018年2月 9日 (金)

堀川通を歩く 上御霊遺前通から紫明通へ

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日と一昨日の記事で小川通と上御霊前通の交差点まで来ました。そこから西に行くと天神公園(扇町児童公園)と水火天満宮があり(上の写真)先日記事にしました。今日はそこから堀川通を北に歩きます。

この公園のあたりに、9世紀初め壇林皇后(786-850、嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子)が病人・貧窮者・孤児を救済するために「悲田院」を建てました。しかしながら、応仁の乱に始まる戦乱により悲田院は荒廃してしましました。(公園の中にある「大応寺」の山門)

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その後の安土桃山時代の1586年、由緒ある悲田院を惜しんで、虚應(こおう)和尚がその跡地に臨済宗相国寺派の大応寺を建立しました。当時は現在の公園を含む寺域があったといわれます。拝観をしていないので、ここから堀川通の方に回ります。

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堂宇は度々火災にあい、現在の建物は江戸時代後期の1808年以後の再建です。本堂には、本尊として釈迦如来、脇侍に迦葉・阿難を安置するほか、後花園天皇の念持仏という観世音菩薩像を祀っています。下は堀川通に面する門。

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後花園天皇は1428年にわずか9歳で即位し、引き続き後小松上皇による院政が続きました。1433年に上皇が崩御した後は30年余りにわたって天皇自らの親政を行い、南北朝の分裂によって失墜した朝廷の権威回復に努めました。「後花園天皇火葬陵」

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1467年に応仁の乱が勃発した際、東軍細川勝元から西軍治罰の綸旨を要求されたましたが、上皇はこれを拒否して兵火を避けて天皇とともに室町第へ移りました。同年に出家したのはかつて発給した治罰綸旨が乱の発端になった不徳を悟ったからだとされます。

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1470年に中風のため室町第で崩御し、泉涌寺が戦乱で破壊されていたため悲田院で火葬されこの地に葬られました。後花園天皇は学問や詩歌にも優れ、飢饉や戦乱の最中に奢侈に明け暮れる将軍足利義政に対して、漢詩で諫めた話はよく知られています。

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直ぐ北に紫明通との交差点があります。紫明通の中央分離帯には鴨川の下を通って、琵琶湖疏水第二分線からの水が流れ、ところどころに「せせらぎ公園」が造られています。水が流れなくなった堀川に水を通すため2002年に堀川水辺環境整備事業が始まりました。

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事業は2009年に完成して、このあたりでは暗渠となり、向うに見える堀川通の中央分離帯に造られた水路に琵琶湖疏水の水を導いています。堀川通の中央分離帯にもせせらぎ公園が造られ、一条戻り橋から御池通までは開渠部となり、憩いの場となっています。

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上と下の建物は株式会社SCREENホールディングスで、半導体、グラフィックス、ディスプレイ、基板製造などのグループ企業の持株、経営管理を行っています。その建物の前に史跡があります。

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かってこの地にあった「随光院」は、紫雲山と号する臨済宗大徳寺派の寺院で、江戸時代初めの1613年因幡国(鳥取県)若桜城主・山崎家盛が大徳寺琢甫(たくほ)和尚を開山に招いて建立したのが始まりです。家盛没後、その法号の瑞光院と称するようになりました。  

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元禄初期には、当院3世陽甫和尚が赤穂城主・浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)夫人・瑤泉院と族縁に当るところから、浅野家の香華祈願所となりました。「瑞光院 赤穂義士四十六士 遺髪塔跡」の石碑があります。

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1701年に長矩が江戸城中で吉良上野介に忍傷に及んで切腹したとき、当院内に供養塔が建てられました。また翌年上野介を討った大石良雄らが切腹する2日前に、院主・宗湫和尚が密かに僧侶を江戸につかわし赤穂義士たちから遺髪や書状を持ち帰りました。

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その遺髪を長矩の供養塔とともに寺内に葬り石塔を建てました。昭和37年(1962)に隣接する企業の社屋拡張の依頼に応じて寺領を譲り、瑞光院は山科に移転しました。下はこの地にあったころの供養塔と遺髪塔で、移転の際に実際に遺髪が確認されたそうです。

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堀川通と紫明通の交差点の東北に「淡交社」のビルがあります。昭和24年に設立され、茶道を軸に歴史・宗教・美術・工芸・建築・庭園などの出版を手がけてきました。

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さらに現在では、茶室・茶庭の設計・施工から茶道具・和装品・和雑貨の販売、カルチャー教室・旅行の運営まで幅広い事業活動を展開しています。ちなみに、社名の由来は「君子之交淡若水」(君子の交わりは淡きこと水の若し)だとか。

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交差点から少し北に行くと、西側に「島津製作所」の門があります。ここでは、動釣合試験機(バランシングマシン)、試験機用恒温槽などの生産・販売、および精密機器・メカトロ機器・特殊製品の生産支援、委託生産などを行っています。

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その門の隣に「紫式部墓・小野篁卿墓」があります。

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平安時代中期、紫式部は時の最高権力者の左大臣・藤原道長の娘・中野彰子(しょうし)に仕える女官となり、12年の歳月をかけて『源氏物語』54帖を執筆し、その後間もなく亡くなりました。そして、この地に葬られたと伝えられています。

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室町時代の公家で学者・歌人でもある四辻善成(1326-1402)が著した源氏物語の注釈書『河海抄(かかいしょう)』には、「式部墓所は白亳(びゃくごう)院南に在り、小野篁の墓の西なり」と書いてあるそうです。

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白亳院の創建の詳細は不明ですが文献にはしばしば現れ、雲林院の子院とみられています。雲林院は現在でもこの墓の西にあり、かっては広い寺域をもっていて紫式部が晩年を過ごしたといわれています。

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隣(東)に小野篁の墓があります。小野篁(802-853)は平安時代初期の公卿・文人で、学問、武芸、和歌に優れ役人として朝廷に仕えました。彼の墓がここにある詳しい経緯は不明ですが、少なくとも室町時代には存在していたと考えられています。

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篁は昼は朝廷に仕え、毎夜冥土へ入り、閻魔庁第二冥官として大王のもとで死者に対する裁判に立会っていたという伝承があります。明治初めの1869年、小野篁の末裔という旧金沢藩家老・横山政和によって「参議小野公塋域(えいいき)碑」が建てられました(上右)。

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ふしだらな絵空事で多くの人々を惑わせたとして、紫式部は死後に地獄行きになったと、当時の人々は信じ歴史書にも書いてあるそうです。源氏物語の愛好家たちは小野篁の墓を紫式部の墓の隣に遷し、紫式部を救ってほしいと祈願したそうです。

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その祈りが通じ、篁は閻魔大王を説得して紫式部を救ったともいわれています。

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コメント

あまりこの辺りは、出てこない景色ですね。
道路の感じが少し違う。
京都は、まだまだ知らないところが多いですね。

投稿: munixyu | 2018年2月 9日 (金) 14:47

★munixyuさん こんばんは♪
堀川通は、京都では珍しく、中央分離帯と川がある広い通りです。今まで詳しく見て歩かなかったのですが、いろいろな史跡があることが分かりました。

投稿: りせ | 2018年2月14日 (水) 23:09

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