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2018年1月 5日 (金)

蹴鞠はじめ 下鴨神社

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日は下鴨神社の「蹴鞠はじめ」を見てきました。最初は小雨やみぞれが降って中止もありうるといわれていましたが、次第に天気がよくなり儀式のすべてを見ることができました。蹴鞠の歴史は後にして、最初に進行を見ながら蹴鞠の用語や作法を説明します。

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この蹴鞠会(けまりえ)は神社への奉納行事で、事前に「枝鞠」といって鞠を枝に付け祈念した後、「鞠庭」で「解鞠(ときまり)」の儀式を行います。鞠庭は蹴鞠を行う場所で約15m四方の広さです。

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四隅には、懸かり木または式木といって、松・桜・柳・楓を植えます。式木が4本とも松のものは最上級の鞠庭で、禁中・仙洞または宗家・将軍家などに作られたもので、下鴨神社の毬庭も松でした。

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毬を毬庭の中央に置きます。「鞠」は鹿の皮を、毛のあるほうを内側にして周りを馬の革で縫い合わせ、膨らませて鉛白で化粧してから綴じふさいだものです。正式の毬庭は、蹴った鞠の音の反響を良くするための地中に壷を埋めるそうです。

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8人の鞠を蹴る人「鞠足」が「座」を組み、方位で決められた場所に位置取ります。北西の位置を「一」の懸かりまたは「軒」、南東を「二」、北東を「三」、南西を「四」といい、この4人の鞠足が軸となって鞠を蹴り、それ以外は「つめ」といい、外れた鞠を蹴り戻す役です。

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初めは「小鞠」といって、各毬足が足馴らし(リフティング)をします。写真では分かり難いかも知れませんが、他の人は毬が飛んでくるおそれがないので立って見ているだけです。

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次に、「軒」(-)から順にあげ鞠を始めます。できるだけ毬を落とさないように蹴り続けるのですが、落とすと次の人があげ毬をします。本番のあげ毬のときは他の人が身構えるので、写真でも分かると思います。

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最後は「二」から「軒」に毬を渡して一座が終わります。つまり、軒があげ毬をした後、次の「二」が蹴らずに毬を「軒」に戻すのです。一座に要する時間はその時の状況にもより、およそ15分から20分ぐらいです。

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毬足を替えて次の座が始まりました。この蹴鞠はじめでは三座行われました。

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毬足の上衣を「鞠水干」といい、金紗、紋紗・繍・摺箔・布羅・絹もじなど、多彩な種類があり、色は香・紫・玉虫、柄も大鳥・鳳凰など、階級によって種々の色目があるそうです。下衣を「鞠袴」といい、葛布を用いますがこちらも種々の色目があるそうです。

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男は「烏帽子」をかぶり、立烏帽子・風折鳥帽子・侍鳥帽子などを用います。毬は軽いので風があると高くあげられず、強風の場合は中止となるそうです。毬が高く上がったり、長く蹴り続けると歓声が上がりました。

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烏帽子の懸緒は厳しい定めがあり、勅許を得ないとかけられなかったものもあったそうです。「鞠沓」は、沓と「しとうず」(靴下・足袋)とを縫い付けた鴨沓といわれるもので、加茂の懸主松下が初めて用いた、あるいは、沓の形から生じた名称ともいわれています。

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古くは平常の物を用いたので、時には脱げ落ちたこともあったとか。鞠を蹴る姿勢が大切で。腰や膝を曲げることなく、足の高さも足裏の見えない程度に上げ、総て端正優雅の趣がなければならないとされます。

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右・左・右に足を運び、鞠が地上に落ちる寸前に足の甲に当て蹴り上げ、鼓を打つ手拍子のように爽やかな音を出します。動作は総てすり足で行い、ちょうど水鳥が水面を滑り泳ぐかのように動くよう、そして上半身は動かさないことになっています。

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最後の座が始まりました。毬は本来は転がして次の毬足に渡すそうですが、毬は水を含みやすく地面が濡れていたので、投げて渡しているとのことです。

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鞠が自分の領域に来た時は、3足で蹴るのが基本です。先ず、よそから来た鞠を受け止める「受け鞠」、次いで自分の鞠を蹴り上げて、3度目に他に渡す鞠を蹴るのだそうです。下はまだ「小鞠」です。

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ところで、蹴鞠は今からおよそ1400年程前、仏教などとともに中国から伝わりました。645年の「大化の改新」の中心となった中大兄皇子と藤原鎌足は、蹴鞠を通じて親密になったことが知られています。

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その後、蹴鞠は中国や東南アジアでは衰退しましたが、我が国では独自の発達を遂げました。特に鎌倉時代の後鳥羽上皇は「蹴鞠の長者」といわれるほど蹴鞠を愛好して、宮中で盛大に行われました。この時代に、蹴鞠の種々の儀式や制度がほぼ完成しました。

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以後の歴代の天皇は近世に至るまでいずれも蹴鞠を嗜み、中でも土御門・順徳・後嵯俄・後深草・亀山・後宇多・伏見・後伏見の各天皇は「中興の祖」と仰がれるほどの名人で、しばしば鞠の会を催しました。

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武家社会でも、鎌倉時代には源頼家・実朝などが京より師範を迎え、室町幕府の足利義満や義政などは鞠の会にたびたび行幸を仰ぎ、戦国の時代にも織田信長・豊臣秀吉らは蹴鞠道に精進し、江戸城内にも「鞠垣」が設けられるなど蹴鞠は盛んに行わました。

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一般民衆も各地に設けられた「蹴鞠道場」に集まり技を競いました。このように、天皇から庶民まで広く蹴鞠が浸透して、和歌と共に「歌鞠両道」と称えられたことは、階級意識の厳しい封建時代に、それを緩める役割を果たしたと考えられています。

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蹴鞠は各時代を通じて多くの名人を輩出しましたが、特に、平安後期の大納言藤原成通は「毬聖」と仰がれ、様々な伝説を残しています。1000日の鞠が成就した時、夢に3匹の神猿が現れ、その神名が鞠を蹴る時の掛け声「アリ、ヤア、オウ」になったといわれます。

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しかし、明治維新になり諸制度が西欧の様式に一新されると、古来の習俗は一様に廃絶され、ほとんどの公家が東京に移ったこともあり、蹴鞠も一時中絶の止むなきに到りました。

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日清戦争の際に広島で明治天皇を蹴鞠で慰問したことが機運となって、天皇から在京の旧堂上華族にその保存の御下命があり、明治36年(1903)に「蹴鞠保存会」が創立されました。オーバーヘッドもあります。

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蹴鞠の儀式作法や蹴る技術、鞠や沓の製法作法は、秘伝あるいは口伝で伝えられたため、蹴鞠の復興には多くの研究や努力が続けられたそうです。蹴鞠はじめを奉納された保存会の皆さんは、いつも白峯神宮で修練をしているそうです。

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4月14日には白峯神宮春季大祭で蹴鞠の奉納があるそうです。 

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コメント

寒い中での蹴鞠は大変でしょうね。
今のサッカー選手が、やったらどうなるんだろう。
蹴鞠の人の方が上手いんだろうか。
見てみたい気がします。

投稿: munixyu | 2018年1月 5日 (金) 13:10

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