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2017年11月15日 (水)

夕暮れの吉田神社 2017秋

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の続きで、吉田神社を訪れました。京都大学の正門のそばにある一の鳥居から参道を進むと二の鳥居があり(上)、そこから石段、あるいは坂を上ったところに社殿があります。

「吉田神社」は平安時代の貞観元年(859)に中納言・藤原山蔭が大和の春日社の四神を勧請して、平安京の鎮守神にしたのが起こりとされます。鎌倉時代初期以降は吉田流卜部氏が代々社司となり、次第に社格が上がり南北朝時代には正一位を授けられました。

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「吉田幼稚園」の運動場、幼稚園の入口や建物は坂の上にあります。

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二の鳥居の手前に末社の「祖霊社」があります。講員(信者の集まり)の祖霊を祀りますが、創建の詳細は不明です。二の鳥居をくぐるともう一つの末社があります。

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「今宮社」は、大己貴神(おおなむちのかみ)、大山祇神(おおやまづみのかみ)、健速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)を祀ります。古くから(少なくとも1215年以前)木瓜大明神と称されこのあたりの産土神として信仰されてきました。社殿は1816年の建立。

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この坂(吉田山の西斜面)には活断層の花折断層が走っています。断層が繰り返し水平ずれを起こし、地面が隆起したのが吉田山だそうです。この付近の断層ではM7.3程度の地震が発生する可能性があると推定されています。

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社司で卜部家17代の吉田兼煕(かねひろ)は、永和4年(1378)京都室町にあった自宅の敷地を足利義満に譲り、足利幕府は室町幕府ともよばれました。そして、それまで名乗っていた「室町」を返上して、吉田神社に因んで、家名を「吉田」としました。

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室町時代中頃の1484年、吉田兼倶(かねとも)は将軍・足利義政夫人の日野富子などによる寄進をもとに、唯一神道(吉田神道)を唱え、山上に斎場所太元宮を造営しました。

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安土桃山時代から江戸時代にかけて、吉田神社は将軍や朝廷から厚遇されました。特に、神祇官八神殿が宮中から大元宮に遷され、神祇官作法は大元宮で行うこととなり、吉田家は全国の神職に許状を発行する立場になりました。

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神祇官とは、律令制で太政官と並ぶ最高官庁で、朝廷の祭祀をつかさどり、諸国の官社を総轄しました。本宮(本殿)には、健御賀豆知命(たけみかづちのみこと)、伊波比主命(いわいぬしのみこと)、天之子八根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめがみ)を祀ります。

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本殿の前にある「拝殿」、ここで追儺式など様々な神事が行われます。

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社務所・授与所

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摂社「神楽岡社」 大雷神(おおいかづちのかみ)、大山祇神、高※神(たかおかみのかみ)を祀ります。水を司る神・雷除の神、神楽岡地主の神として信仰されてきました。延喜式にも記され、吉田神社本宮創建の頃には既に鎮座していました。

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摂社「若宮社」 天忍雲根命(あめのおしくもねのみこと)を祀ります。本宮に祀られている天之子八根命と比売神の子の水徳の神です。もともと本宮に無社殿で祀られていましたが、慶安元年(1648)にこの場所に遷座して、後に吉田神社 摂社に定められました。

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「神鹿像」 吉田神社の創建時に、藤原氏の祖神で、祭神の健御賀豆知命が白鹿に乗って春日大社から吉田山西麓に鎮座したという伝承にちなんで建立されました。昭和32年の吉田神社御鎮座千百年記念事業として、しばらくの間生きた鹿が飼われていました。

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神鹿像の横の石段の上に末社「神龍社」があり、吉田神道を創始した従二位・吉田兼倶が祀られています。暗くて危なそうなので登っていません。

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東の鳥居の前から左の坂道を上ると「菓祖神社」があり、果物の祖と言われる橘を日本に持ち帰ったとされる田道間守命(たぢまもりのみこと)と日本で初めて饅頭をつくったとされる林浄因命(はやしじょういんのみこと)を祀ります。京都菓子業界により昭和32年創建。

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「龍澤池」 吉田山はかっては神楽岡といい、平安京造営以前から雷神を祀る霊地でした。ここに奈良の猿沢の池を模した池をつくったところ、どんな日照りでも水が枯れず、村人たちは池の周りで雨乞いの儀式をしたと伝わっています。

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東の鳥居をくぐってさらに上ると「山蔭神社」があり、藤原山蔭と恵比須神を祀ります。昭和32年の吉田神社御鎮座1100年大祭を記念して、昭和34年に全国料理関係者が創建した神社です。

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日が暮れて暗くなってきました。左の石碑は「第112代天皇・霊元法皇御幸址」 徳川綱吉の時代の天皇で、幕府の朝廷統制にもかかわらず奔放な振舞いを続け、歌や書の達人としても知られています。

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大元宮の前、右からかっての表参道が合流します。この参道を上ったところに末社「三社社」があります。

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三社社は、海の神の多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)・狭依毘売命(さよりひめのみこと)・多岐津毘売命(たきつひめのみこと)、山の神の金山毘古命(かなやまひこのみこと)・金山毘売命(かなやまひめのみこと)、知識の神の菅原神(すがわらのかみ)を祀ります。

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「斎場所 大元宮」 吉田神道で宇宙軸を現す大元宮は、始まりの神(虚無大元尊神)を中心に祀り、そこから生まれ来る八百万の神々を祀ることで、全国の神々の様々な御神徳を授かることができるとされます。

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かって室町にあった社を吉田兼倶が文明16年(1484)に当地に造営、吉田神道の根元殿堂です。正月3日間と節分祭、および毎月1日に限り、大元宮の本殿や東西諸神社などの特別参拝があります。右手前の柵の中に「幽斎桜」があります。

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細川幽斎は安土桃山時代の武将で、歌道や古典、学問にも秀で吉田家と血縁関係にありました。公卿との交流も多く、丹後に左遷された公家中院通勝をもてなし、吉田山から桜を丹後へ移植しました。4百年を過ぎたその桜の苗木が平成16年に里帰りしました。

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しかしながら、数年前に枯れてしまい柵だけが残っていました。この時見ると平成25年に接木された桜が再び植えられていました。幽斎桜は背は高くないのですが、華麗な花が咲く枝垂れ桜で来年の春が楽しみです。この後、さらに吉田山を登ります。

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コメント

もみじの紅葉がいいですね。
今年の紅葉は結構色づきがいい方では?
なんとなくそう思います。

投稿: munixyu | 2017年11月15日 (水) 18:47

吉田山は断層の隆起だったのですか。。。ある意味ここも京都のヘソみたいな所かもしれません~。
卜部家の家が室町にあったということですが。。吉田神社まで通っていたってことなんでしょうか。。ちょいと距離があるような気もしますが。。
なるほど吉田東通りから行ける所はかつての表参道のほうだったようですね。。。登るといきなり大元宮の所だった気がします。。最初はあまりに静かなので、あんまり重要な所じゃないのかなぁ。。。なんて思ったんですが、上まで行ってまた戻って来て、もう一度覗いたら。。。中に八角形っぽい建物が!w 
大通りや街中に面している所からすると、あまりの雰囲気の違いに、秘密の遊び場みたいな気分になるので、楽しい所です。
そういえば、節分の行事は下の方でやるのですか?大元宮の方でもなにかやるんでしょうか。。

投稿: ばるさろ | 2017年11月15日 (水) 21:55

★ばるさろさん こんばんは♪
創始者の藤原山蔭が吉田山近くに屋敷を構えたのは確かなようです。吉田神社の始まりがその鎮守社でしたから。一方、吉田流卜部氏がかって冷泉、後に室町を名乗っていたのは屋敷があった場所と考えられています。卜部氏は平野神社の社領も有していて、後に平野流と吉田流の二つの家系が交互に卜部氏氏長者を務め、室町の屋敷を幕府に譲ったのはその時代の頃だそうです。もしかしたら、屋敷は既になく室町の家名をはばかって改姓したのかも知れませんが。
節分祭では表参道から大元宮までの参道に屋台が建ち並びます。主な儀式は本宮前の拝殿で行われますが、大元宮も公開されてお参りができ、お祓いや授与品があります。一方、節分の鬼は竹中稲荷の参道から現れて拝殿の周りで暴れて、再び帰っていきます。

投稿: りせ | 2017年11月16日 (木) 00:43

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