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2017年10月 1日 (日)

松尾大社 だだ今遷宮中

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

久しぶりに松尾大社に行ってきました。一番東にある大鳥居(一の鳥居)、楼門、本殿などが修復工事中でした。伊勢神宮などで行われる式年遷宮(定期的に行われる遷宮)と違い、松尾大社の遷宮は不定期に行われ、今回は約50年ぶりだそうです。

上の写真の二の鳥居の柱どうしを注連縄(しめなわ)で結び、榊の小枝を束ねたものが垂れ下っています。これは、脇勧請(わきかんじょう)とよばれ、鳥居の原始的な形式を示すものだそうです。

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神道では、神は汚れを嫌い清らかな環境を好むと考えられ、建物が老朽化することは神の力が衰えてくることだと考えられているのだそうです。二の鳥居をくぐった左に松尾祭の舟渡御に使われる駕輿丁船(かよちょうぶね) が置いてあります。

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松尾大社の祭神・大山咋神(おおやまくいのかみ)は、神社の創建以前からこの地方一帯に住んでいた住民が、松尾山の山霊を頂上に近い大杉谷の上部の磐座(いわくら)に祀って、生活の守護神として尊崇したのが始まりと伝えられています。

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5世紀の頃、朝廷の招きによって渡来人の秦氏の集団がこの地方に移住してきました。その首長は松尾山の神を一族の総氏神として仰ぎつつ、この地方の開拓に従事して新しい文化をもたらしました。

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秦氏は保津峡を開削し、桂川に堤防を築き、今の「渡月橋」の少し上流には大きな堰を設けました。その下流の所々にも水を堰き止めて、そこから水路を引き、桂川両岸の荒野を農耕地へと開発していきました。

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大堰は大井川の名の起源となり、水路は一ノ井・二ノ井などと称し、現在も神社の境内を流れています(上の写真)。

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農業が発展するにしたがい他の産業も興り、絹織物や酒が盛んにつくられるようになりました。酒造は秦一族の特技とされ、後に松尾大社が「日本第一酒造神」と仰がれるまでになります。

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時代と共に経済力と工業力を得てきた秦氏は、大和時代以後朝廷の財務官吏として影響力を増していきました。奈良時代の政治が行き詰まると長岡京へ、次に平安京へ遷都を誘引したのも、秦氏の勢力によるものが大きかったといわれます。(「招福樽うらない」)

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奈良時代の文武天皇の大宝元年(701)に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が勅命を授かり、山麓の現在地に神殿を営み、山上の磐座の神霊をこの社殿に移しました。これが松尾社で、現在の松尾大社の始まりです。

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秦氏の女の知満留女(ちまるめ)が斎女として奉仕し、その子孫が明治初年まで当社の幹部神職を勤めた秦氏(東・南とも称した)です。(拝殿)

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延暦3年(784)桓武天皇は都を長岡京に移すと、松尾社に勅使を派遣してこれを奉告し、秦氏の邸宅に御所を営みました。(本殿には、大山咋神とともに、福岡宗像大社の三女神の一人の中津島姫命(なかつしまひめのみこと、市杵島姫命)を祀ります。)

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まもなく平安京に都を移すと、松尾社と賀茂社とを皇城鎮護の社とし、賀茂の厳神、松尾の猛霊と並び称されて、崇敬はいよいよ厚くなりました。(中津島姫命は航海の守護神です。)

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その後も朝廷の信仰が厚く、神階は従三位から貞観元年(859)には正一位に、後に勲一等に叙せられました。

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鎌倉時代に入ると武家たちにも信仰されるようになり、将軍たちからさまざまな奉納・献上がありました。江戸時代には、嵐山一帯の山林を所有し、多数の神職を有するようになりました。(下は境内摂社の「祖霊社」、松尾大社ゆかりの人々の霊を祀ります。)

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社領も各地に展開し、全国に現存する一千三百余の分霊社の多くはこの時代に創設されました。(「伊勢神宮遥拝所」)

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祖霊社の右にさらに三つの摂社が並んでいます。手前から「衣手社」は農耕や産業の神・羽山戸神(はやまとのかみ)、「一挙社」は困難を一挙に解決する一挙神、「金刀比羅社」は商売繁盛・交通安全の神・大物主神(おおものぬしのかみ)を祀ります。

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社領も各地に展開し、全国に現存する一千三百余の分霊社の多くはこの時代に創設されました。(下は、「相生の松」、恋愛成就の御利益があるとか。)

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明治4年には、全国神社中第四位の序列の官幣大社となり、政府が神職の任命や社殿の管理などを行う国の管轄とななりました。(「幸運の撫で亀」)

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「幸運の双鯉」、こちらも撫でて幸運を祈念します。松尾大社の大神(祭神)が太古、山城丹波の国を拓くため保津川を遡った時、急流は鯉、緩やかな流れは亀の背に乗って進んだと伝えられ、以来亀と鯉は神の使いとして崇められているそうです。

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終戦後は、国家管理の廃止により官幣大社の称号がなくなり、同名神社との混同を避けるために昭和25年に「松尾大社」と改称し現在に至ります。(「亀と鯉」、亀は不老長寿、鯉は出世開運の守護の姿を表しているとされます。)

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「祓戸(はらえど)大神」 心の穢れを祓い、身に付いた悪運、悪縁、病が取払われ、心身を清めて生きる力も再生するという神です。

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松尾大社の亀にはもう一つ逸話があります。背後の松尾山は、いくつかの谷に分かれ、その一つに大杉谷があります。記録によれば、元正天皇の和銅7(714)年8月、

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この谷から「首に三つの星を戴き、背に七星を負い、前足に離の卦を顕わし、後足に一支あり、尾に緑毛・金色毛の雑った長さ八寸の亀」が現れました。「離の卦」は横三本線の中央が欠けている印で、二陽が一陰を囲み、外に陽気が発散するとされます。

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これを朝廷に奉納すると、元正天皇は「嘉瑞なり」と、715年に元号を「和銅」から「霊亀」へと改め、亀は再び元の谷に放たれたといいます。嘉瑞(かずい)とはめでたいしるし(吉兆)のことです。

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コメント

「幸運の撫で亀」「幸運の双鯉」
撫でる系の神様って楽しいし、ご利益ありそうでいいですね。

投稿: munixyu | 2017年10月 1日 (日) 12:12

なかなか近場に居ないと、松尾大社までは足がのびません。。。そのうち行きたいんですが。。。
国費が投入されるわけでもないでしょうから、遷宮は神社にとって誉れな事であるけど、大変なことでもあるんでしょうねぇ。逆に伊勢や上下加茂神社などはトップクラスの知名度ですが、遷宮のサイクルがきっちり決まっていると、資金調達がはかどらないと、やきもきしそう。
もともと、祭祀の場所はその時だけ造られて、使用後は破棄して、次の儀式の時は新たに作り直すのが普通だったから、日本人の新しいモノ信仰の原点かもしれないですよね。
それと同時に先祖を敬う気持ちが古い物への愛着となって現れていたりして。。。
古い物が残る神社に新しいお社。アンバランスなようだけど、古い民家の路地裏から高層ビルが見えるアンバランスとどこか共通してるかも。。。なんて思いました。

投稿: ばるさろ | 2017年10月 2日 (月) 07:44

★ばるさろさん こんばんは♪
松尾大社も経営は楽ではないようですね。先日、元神職らが残業代や賃金未払で訴訟を起こしました。重要文化財の大規模な修復には国や自治体から補助はあるものの、莫大な自己負担金が必要です。大勢の観光客で潤う産業がある一方、その観光資源である文化財の保存が所有者の自己負担に負うところが大きい現状をなんとかしてほしいと思います。

投稿: りせ | 2017年10月 3日 (火) 00:15

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