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2017年10月21日 (土)

広隆寺 秦氏と聖徳太子

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日、太秦の広隆寺に行ってきました。「広隆寺」は、山号を蜂岡山という真言宗御室派の寺院で、京都最古の寺です。楼門は江戸時代(1702年)の建立。

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日本書紀によれば、飛鳥時代の603年渡来人氏族の秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から賜った弥勒菩薩像を本尊として蜂岡(はちおか)寺を建立したのが始まりとされます。そして、622年には、堂塔、伽藍が完成しました。仁王像は室町時代の作。

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秦氏は、秦(中国)からの帰化人で、深草後に葛野郡を本拠とし、養蚕、機織、酒造、治水などの技術を持った一族でした。「薬師堂」に安置されている木造薬師如来立像(平安時代前期)は、通常の薬師如来像と異なり、吉祥天像のような姿の吉祥薬師像だそうです。

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秦氏は朝廷では重要な実務を担当し、秦河勝は聖徳太子の側近でした。一方で、広隆寺に残る縁起などには、同年(622年)に聖徳太子が亡くなり、その供養のために創建されたとされます。「講堂(赤堂)」(重文) 

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永万元年(1165)に再建され、後に改造、修理されていますが市内に残る数少ない平安建築の一つです。本尊の阿弥陀如来坐像(国宝)、右に地蔵菩薩坐像(重文)、左に虚空蔵菩薩坐像(重文)を安置しています。

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上の二つの記録には創建時期に約20年の差がありますが、いずれにしても広隆寺は秦氏の氏寺として創建され、聖徳太子の菩提を弔ってきたことは確かなようです。能楽堂

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平安遷都(794)に際しても秦氏は、秦都岐麻呂(はたのときまろ)が造都の技術者となり、遷都の財政的な協力も行ったとみられています。「地蔵堂」 平安時代後期の作で「腹帯地蔵」と呼ばれている木造地蔵菩薩坐像を安置しています。

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以後、秦氏は歴史の表舞台から消えますが、秦氏が創建した伏見稲荷大社、広隆寺、蚕ノ社、梅宮神社、松尾大社などは、現在に至るまで歴史を生き延びてきました。下は「上宮王院太子殿」 享保15年(1730年)に建立され、広隆寺の本堂に当たります。
その後、
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本尊として聖徳太子立像を祀ります。太子が秦河勝に仏像を賜った時の33歳の像で、下着姿の像に、室町時代1526年に即位の後奈良天皇以来、各天皇が即位式で身に付けた袍を着てきました。現在は1994年に現天皇により贈られた黄櫨染の袍を着ています。

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本像は秘仏で、11月22日のみ開扉されるとのことです。下は「井戸舎」 井戸水を汲んでいるのでこの名だそうです。

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「太秦殿(河勝殿)」 1843年に建立され、秦河勝夫婦を祀っています。

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本堂の西にある「書院」と「庫裡」、その向こう(左)には「桂宮院」があります。桂宮院は建長3年(1251)頃の建立とされ、その本堂(国宝)は法隆寺夢殿と同じ八角円堂です。

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本堂横の道をさらに北に行きます。

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上宮王院太子殿の横を通ります。

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「弁天社」 かっての弁天池は、現在の境内から北の「大酒神社」まで広がり、東西40m、南北30mで中島は直径12m、水面から1.5mの高さがありました。この池が宅地造成のために埋め立てられることになり、昭和52年(1977)から行われた発掘調査で、中島から平安時代後期の経塚群「弁天島経塚」が出土しました。

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庫裡の入り口 右は霊宝殿の拝観受付

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桂宮院への入口があります。以前は定期的に公開されていましたが、現在は特別な場合を除いて非公開となっています。桂宮院の本尊は鎌倉時代作の聖徳太子半跏像(重文)で、現在は霊宝殿に遷されています。

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正面は「旧霊宝殿」  1922年の聖徳太子1,300年忌に建設され、現在は非公開となっています。右手の道を行くと「新霊宝殿」があります。

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新霊宝殿は、仏像を中心とした広隆寺の文化財を収蔵展示する施設で、1982年の建設。国宝の弥勒菩薩像2体、十二神将像などが安置されています。

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2年ぶりに仏像たちに会えて満足しました。内部は撮影禁止ですが、正面の庭(本堂の北庭)は少し色づいていました。右手の池もかっての弁天池の名残と思われます。

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広隆寺を訪れたのは閉門近くだったので、ここまで急いで来ました。秋の気配を感じる風景を眺めながら戻ることにします。

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ところで、広隆寺には「宝冠弥勒」「宝髻(ほうけい)弥勒」とよばれる2体の弥勒菩薩半跏像があり、ともに国宝に指定されています。頭に冠があるかないかの違いです。日本一美しいといわれるのは宝冠弥勒の方です(山門の横に写真があります。)

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宝冠弥勒は日本の古代の仏像としては他に例のないアカマツ材で、作風には朝鮮半島の新羅風が強いとされます。一方の宝髻弥勒は飛鳥時代の木彫像で一般に使われるクスノキ材です。

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宝冠弥勒は朝鮮半島伝来ではないかとされてきましたが、近年背板や腰から下がる綬帯(じゅたい)は楠製であることがわかり、日本で作られたという可能性も出てきたそうです。

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前述の秦河勝が聖徳太子から賜った像は「尊仏像」と記されているだけで、この2体の弥勒菩薩像のいずれかに当たるという確証はないそうです。なお、広隆寺の本尊は平安遷都の後に弥勒菩薩から薬師如来に代わりました(後の火災で焼失し現在はその再建像。)

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縁起には、延暦16年(797年)に山城国乙訓郡から向日明神(むこうみょうじん)由来の「霊験薬師仏壇像」を迎えて本尊としたと記されています。

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広隆寺は818年の火災でほぼ全焼し、創建当時の建物は残っていません。836年に広隆寺別当(住職)に就任した空海の弟子・道昌は焼失した堂塔や仏像の復興に努め、広隆寺中興の祖とされています。道昌も秦氏の出身で、嵯峨野の法輪寺も再興しました。

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平安時代から室町時代にかけて、広隆寺は歴代天皇から寄進があり朝廷に庇護されてきました。織田信長、豊臣秀吉、徳川幕府からは寺領を安堵され、明治になっても、天皇即位の御衣が贈られ現在まで続いています。これも聖徳太子ゆかりの寺院だからです。

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一方、秦氏は桂川、鴨川下流域の開発に寄与し、一大勢力権を築き、新都として平安京が選ばれた理由の一つになりました。この地の太秦の名は秦氏が由来ですが、全国に散らばり関東では秦野市にも名を残しています。

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平安時代以降、多くは惟宗氏を称しますが、秦氏を名乗る家系(楽家の東儀家など)も残りました。東家、南家などは松尾大社の社家に、荷田家、西大路家、大西家、森家などは伏見稲荷大社の社家となりました。

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戦国武将の多くは藤原氏や源氏の末裔と称しましたが、薩摩島津氏や長宗我部氏は秦氏の家系であることが分かっています。現在でも秦氏の末裔を名乗る実業家、芸術家、文化人たちがいて、今なお一定の影響力を持っているといえます。

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コメント

聖徳太子ってやっぱり、その当時は凄い存在だったのでしょうね。
現在まで力の跡が残っているわけで。

投稿: munixyu | 2017年10月21日 (土) 14:07

秦氏の関係の寺社の場所と年代を整理してみたくて調べてみたのですが、最初は豊前に入ったようですが、大和国に使えるようになって奈良から北上したように見えますね。寝屋川、深草と上がって行ったように思ったのですが、ここ広隆寺の建立が603年となるとその後程なくして蚕の社(701年以前、不詳)が作られたのかなぁ。。松尾大社が701年、伏見稲荷は708~715とあるので、各地にそれぞれ広がってそこで地盤を着実に築けたことで、立派な社寺の創建に繋がった。。。なんてことかなと想像しました。
その中でも太秦は年代が古いので、まずは太秦に拠点を作ってから南下したのかもしれないですね。広隆寺は修学旅行以来行ってないのですが、もう一度行っておかなくては。。と思ってます~

投稿: ばるさろ | 2017年10月22日 (日) 21:26

★ばるさろさん こんばんは♪
広隆寺の魅力は何といっても仏像です。写真を撮れないのでちゃんと紹介できませんが、是非訪れて直接ご覧になってほしいと思います。

投稿: りせ | 2017年10月22日 (日) 23:10

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