« 月読神社 壱岐の月神 | トップページ | 中秋の名月 2017 »

2017年10月 4日 (水)

谷ヶ堂 最福寺と延朗上人

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

Jni_5040a
※写真は全てクリックで拡大します。

月読神社を出て、さらに南に5、6分歩くと小さなお堂があります。手前の石標には「谷ヶ堂 最福寺開山 延朗上人旧跡地」とあります。

Jni_4956a

奈良時代末期にはこの地に「松尾山寺」があり、平安時代後期の1159年「平治の乱」により焼失したといわれます。この戦は、平清盛と源義朝の対立が院の近臣らを巻き込み、伝説の武将・源頼政が平等院で平家の軍に囲まれ自刃したことでも知られています。

Jni_4965a

お堂の横の蹲踞?に「松尾山寺、尊鏡大法師像安置」とあります。『続日本紀』の延暦元年(782)の項に「松尾山寺尊鏡 生年百一歳 詣入内裏 叙位大法師 優高年也」とあり、奈良時代末期に101歳で大法師となったと記されている長寿の僧です。

Jni_5050b

松尾山麓の神宮寺に住していた延朗(えんろう)は、平安時代後期の1176年この地に天台宗寺門派の最福寺を建立しました。七堂伽藍と49院の塔頭が建ち並び、塔は五重塔だったといわれます。

Jni_4960a

延朗(1130-1208)は、但馬に生まれ幼くして父母を喪い15歳で出家しました。伝承では八幡太郎源義家4世の孫ともいわれます。平治の乱では源氏のため平清盛に追われて、陸奥松島に逃れました。

Jni_5050a

義経が丹波国亀岡篠村を寺領として最福寺へ寄進した際には、村人に免租や富民の善政を施し、悪病難病の治療のために寺に浴室を造り、自ら病人を治療したといいます。
下の「さしのべ観音」は延朗上人800年大遠忌祈念に建立されたものです。

Jni_4968a

延朗は、多くの民衆の救済に献身したので、人々は「松尾の上人」と呼び尊敬を集めたとわれます。石碑は「ひたすらに おすがり申す 延朗さん」。

Jni_4966a

最福寺は、西芳寺川の谷口の谷郷(たにごう)に位置していたことから、「谷堂」ともよばれました。鎌倉時代になり、延朗の没後も伽藍は次第に整備され、源頼朝(1147-1199)も寺領を寄進したといわれます。(こちらは800年大遠忌祈念の六体地蔵。)

Jni_4969a

鎌倉時代前期の1219-1222年、延朗の弟子・慶政は、最福寺の南隣の丘陵に法華山寺を建立し、「峰堂」とも呼ばれました。関白・九条道家は寺領を寄進して大伽藍となり、最福寺と法華山寺は、西山屈指の大寺になりました。(かっては最福寺境内にあった石仏?)

Jni_4979a

鎌倉時代末に後醍醐天皇の勢力を中心とした鎌倉幕府討幕の「元弘の乱」(1331-1333年)が起こります。『太平記』によると、隠岐を脱した後醍醐天皇の命を受けた千種忠顕が、聖護院静尊法親王を立て、西山峰堂に入り布陣しました。

Jni_4983a

20万騎の軍勢が峰堂周辺に陣取り、忠顕は幕府方の六波羅を攻めるも敗退、幕府方の反撃により峰堂の本陣を捨て丹波に逃れました。その際、谷堂と峰堂は火を放たれ破却されました。その後しばらくして、二つの寺は再建されたといわれます。

Jni_4991a

南北朝時代になると、「明徳の乱」(1391年)など数度、この地に双方の軍勢が集結して戦いが起こりました。そして、「応仁の乱」(1467-1477)では、東軍・山名右馬助らが最福寺に布陣しましたが、西軍・畠山義就に攻められ、最福寺は法華山寺とともに焼失しました。

Jni_4998a

戦国時代末の1571年、織田信長が比叡山を焼討した「元亀の乱」でも両寺は焼失、その後再興されることはありませんでした。谷ヶ堂から脇に入った場所は旧境内と思われ、最福寺の遺物と思われる瓦や石材が残されています。

Jni_5001a

旧最福寺本尊の「阿弥陀像」は嵯峨・正定院に遷されました。車折神社の近くにある浄土宗の寺です。

Jni_4987a

現在この地には谷ヶ堂(延朗堂)の一堂だけが残され、開山の「延朗上人坐像」が安置されています。近くにある西光寺が管理しているそうです。

Jni_5010a

洛西観音霊場番外札所になっていて、御朱印(押印、揮毫、祈願済)も用意されています。毎月12日の延朗上人の月命日の午後1時から谷ヶ堂が開帳され、延朗上人坐像を拝むことができます。また、月末には写経会、写仏会が催されます。

Jni_4963a

毎年2月11日の夕方には、「延朗上人、さしのべ観音 竹とうろう祭」が行われ、上人の供養の後、願い事を書いた六百本以上の青竹燈篭が並び、さしのべ観音のライトアップ、演奏会や甘酒の接待があります。翌日の命日には青竹燈篭の焚き上げ供養があります。

Jni_5039a

最福寺が廃絶してから400年以上たちますが、開山の延朗上人は今なお人々に敬愛されています。

Jni_5029a

この地は山陰道を下にみる交通の要衝であったため、二つの大寺は度重なる戦に巻き込まれ廃絶してしまいました。下の石碑には「平治、元弘、応仁、元亀の乱 戦火ゆかりの地」。

Jni_5047a

右の石碑には「松尾より京へ二里」

Jni_5046a

今日もお越しいただき、ありがとうございます。お帰りの前に、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。

  ★こちらを是非よろしく→   ブログ村→にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
-------------------------------------------------------------------

Jni_4964b

|

« 月読神社 壱岐の月神 | トップページ | 中秋の名月 2017 »

コメント

少し変わった仏さんですね。
少し人間っぽいような気がします。

投稿: munixyu | 2017年10月 4日 (水) 12:59

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 月読神社 壱岐の月神 | トップページ | 中秋の名月 2017 »