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2017年10月12日 (木)

荒神口から志賀越道へ

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の清荒神(護浄院)のあたりは、京の七口の一つ・荒神口といい、京都から近江に至る志賀越道(山中越)の出発点です。かっての面影を求めて、少しこの旧街道を歩いてみます。

古くは吉田口、今道口、志賀道口ともいわれ、荒神口と呼ばれたのは慶長5年(1600)に清荒神ができてからです。(河原町通との交差点)

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「荒神橋」 江戸時代には個人が所有する簡素な橋が架けられていて、通行料を取ったことから銭取橋と呼ばれたそうです。

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牛車は、溝がついた板石を敷き詰めた車道を渡り、欄干にはそのデザインが施されています。江戸時代後期になると、御所の火災により御殿を移る孝明天皇や、朝廷が使わす奉幣使のためにしっかりした橋が架けられ御幸橋ともよばれました。

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幕末には本願寺が資金を募って橋を新造し、勤皇橋とも呼ばれました。明治時代になると、修繕費のため府が通行料を徴収したそうです。現在の橋は1914年にかけられ、1981年に歩道部分が拡張されました。

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下は、2008年荒神橋東詰に建てられた京都大学稲盛財団記念館です。明治初めに2代知事となった槙村正直は、このあたりに京都牧畜場を設置しました。東京遷都で沈滞した京都の復興のため、欧米化による産業振興の一環でした。

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しかし、3代府知事・北垣国道が就任するとわずか数年で事業は中止、土地は相次いで民間に払い下げられました。「牧畜場記念碑」と「明治天皇行幸所牧畜場址」の石碑が記念館の敷地にあります。下は近衛通で、その名は平安京の近衛大路に由来しています。

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志賀越道は近衛通の北にあり、東北に向かっています。平安京の道路は碁盤の目のように東西・南北に直交し、周辺の土地もほぼ同様です。でも、斜め、あるいは湾曲して通る道路があり、これらの多くは旧街道で、もともと自然の地形に沿って通っていた道です。

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旧街道といっても、このあたりには当時の古い家屋は見当たりません。店構えがおいしそうな雰囲気がする蕎麦屋さん。

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下は、レストラン、ホテル、会議室などがある「京大会館」でしたが、現在は大学の施設(文書館)となっています。

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さらに行くと、右手は京都大学医学部キャンパス。この南にある京大病院の構内南辺には、幕末の歌人大田垣蓮月(1791~1875)の住居跡があり、自詠の歌を手づくりの茶器類に釘彫りした 「蓮月焼」 が多数出土しているそうです。。

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左は「紫蘭会館別館」で、ホテルやレストラン、会議室が利用できます。紫蘭会館は京都大学医学部創立百周年記念施設です。

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東大路通に出ました。江戸時代後期になると、近江との主要交通路が三条街道(東海道)に移り、この志賀越道は街道としては寂れてしまいました。幕末には、この街道を遮る形で、尾張藩下屋敷が建てられました。

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明治中期の1889年第三高等中学校がこの土地を取得して移転、1894年第三高等学校、1897年京都帝国大学が発足しました。(交差点を渡って振り向くと、左が志賀越道、右が東一条通。)

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この場所は志賀越道から吉田神社に向かう参道入口でした。

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交差点の東北隅に当時の道標(吉田本町道標)が残っています。「左 百まんべん」。「右 からさき さかもと 白川道」とあります。江戸中期に沢村道範が建立したものです。実際には下の部分が埋もれていて、左右とも「乃道」の文字が隠れているそうでうす。

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白川道は志賀越道のことです。 志賀越道は京都大学の本部キャンパスの中を通っていて、大学による発掘調査で中世から江戸時代の遺構が見つかっています。こちらは南にある総合人間学部(旧教養部)キャンパス。

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幅が約 4.5mの路面は、土や石を堅くたたきしめて造成し、車輌の通行にともなう轍(わだち)の跡が明瞭に残っていたそうです。古銭や器の破片も出土して、活発な往来があったことが推察できます。(京都大学本部キャンパス)

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また、街道に沿う側溝、野壺、井戸なども発見され、この時期の都市近郊農業の景観を復元する資料となっているそうです。(吉田神社の鳥居、本部キャンパスを左に回り込みます。)

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本部キャンパスの東から再び志賀越道が現れます。

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右には吉田山があり、街道はその山裾を回り込むように曲がっています。このあたりは坂道になっています。

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祠が見えてきました。

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かなり大きな石仏です。ともに定印弥陀坐像を刻出し、右は後ろに二重光背があります。双方とも、鎌倉中期のものと推定されるそうです。左の背の高い道標は、1849年建立、「北白川西町道標」と名付けられ、京都の文化財指定された五つの道標の一つです。

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こちらの南面には「左 三条大橋 二十五丁 祇園 清水/知恩院 東西本願寺 一里半」。西面には、「すく/比ゑいさん 唐崎 坂本/嘉永二年己酉仲夏吉辰願主某 石工権左衛門」とあります。北と東の面にもそれぞれの方向の目的地と距離が彫ってあります。

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北面には「右 北野天満宮 三十五丁」とあり、この道標が今出川通と志賀越道の分岐点にあったことが分かります。前は吉田神社の北参道。

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今出川通に合流しました。

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今出川通の向こう側に、志賀越道が続いているのが見えます。ここで横断歩道を渡ります。

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こちらには多数の石仏が祀られています。街道筋にあるので集められたものと考えられます。

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こちら側には大きな「子安観世音」の石仏があります。古くから住民に信仰された石仏で、拾遺都名所図会にも希代の大像(弥陀仏)として描かれています。秀吉に聚楽第に連れていかれたが「帰りたい帰りたい」と訴えここに戻ってきたとの言い伝えがあります。

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志賀越道はここから白川通を横切り、白川に沿って滋賀峠を越えて琵琶湖西岸に向かいます。日が暮れてきたので、ここから帰宅しました。

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コメント

小さな祠や石仏めぐりなんかも、いいかもしれませんね。
いろんな発見とかがありそうです。
探検みたいで楽しそう。

投稿: munixyu | 2017年10月12日 (木) 10:39

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