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2017年10月28日 (土)

相国寺 秋の境内を歩く

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

相国寺の法堂、方丈、開山堂を見学した後、境内を一回りしました。上は「総門」で、文正元年(1466)に再建しましたが、その後天明の大火などで焼失と再建を繰り返し、現在の建物は寛政9年(1797)に再建されたものです(京都府指定有形文化財)。下は勅使門。

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「放生池」と「天界橋」 天界とは当寺と御所との中間に境界線の役目をはたしているところから名づけられました。天文20年(1551)に相国寺が焼亡した天文の乱はこの橋をはさんで始まっています。

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総門から北に参道が続きますが、西にも南北の道が通っています。この二つの道はところどころで東西の道で結ばれています。下は「三門跡」 天明8年(178)の大火で焼失した後再建されず、数個の礎石と基壇の石組みが残されています。

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「勅使門」は天明の大火を免れ、慶長頃の再建と考えられています。平成16年(2004)修復されました(京都府指定有形文化財)。

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境内の南北の中心線上に、かっては勅使門、三門、仏殿、法堂、方丈、書院が並んでいましたが、現在では三門と仏殿はなく向うに法堂が見えます。

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もう一度総門からの参道に戻りました。

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「弁天社」 祀られている弁財天は御苑内の久邇宮邸の守護神が、東京移転の際に寄進されたものです。

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弁天社の隣に鐘楼があり、その横の道の正面には塔頭の「大通院」があります。かって伏見にあった大光明寺(現在相国寺塔頭)の境内に、伏見宮始祖大通院宮栄仁親王の菩提所として建てられました。1600年代初めに大光明寺とともに相国寺山内に移されました。

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現在は相国寺修行道場「専門道場」を兼ねていて、坐禅堂は四方単の大規模な禅堂で、日夜雲水(修行僧)が坐禅や托鉢に励んでいるそうです。「相見謝絶」の看板…

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鐘楼「洪音楼」 天明の火災で焼け、寛政元年(1789)古鐘を買って仮楼にかけ、天保14年(1843)現在の層楼を建造しました(京都府指定有形文化財)。「袴腰付鐘楼」としては、全国有数の大型なものだそぅです。

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「宗旦(そうたん)稲荷社」 大通院の前(鐘楼の裏)にあり稲荷社には「宗旦狐」の伝承があります。 江戸時代の初め、相国寺境内に一匹の白狐が住んでいました。

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その狐はしばしば茶人・千宗旦に姿を変え、時には雲水にまじり坐禅をくみ、また時には寺の和尚と碁を打つなどして人々の前に姿を現していました。宗旦になりすました狐は、近所の茶人宅へ赴いては茶を飲み菓子を食い荒らすことがたびたびでした。

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ある時、宗旦狐は塔頭・慈照院の茶室びらきで、点前を披露していました。遅れてきた宗旦はその見事な点前に感心したといいます。

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宗旦狐は店先から油揚げを盗み、追いかけられ井戸に落ちて死んだとも、猟師に撃たれて命を落としたとも伝えられています。

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化けていたずらをするわけでなく、人々に禅を施し喜ばせていたという宗旦狐の死を悼み、雲水たちは祠をつくり供養しました。それが今でもこの宗旦稲荷として残っているのだそうです。

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「仏殿跡」 天文20年(1551)の石橋の乱で焼け落ちて以来再建されず、今や礎石だけが残っています。

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庫裏「香積院」 禅院の庫裏として典型的な切妻妻入で、文化4年(1807)の建立。左側にある大玄関は、明治16年(1883)に二世国師の五百年遠忌に際して設けられ、それまでは韋駄天を祀る部屋だったと考えられています。平成19年に京都府指定有形文化財。

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「承天閣美術館」 相国寺創建600年記念事業として昭和59年に開館。本山相国寺、金閣寺、銀閣寺、他塔頭寺院に伝わる美術品(国宝5点、重文143点を含む)の保存・公開、修理、研究調査などを行っています。現在、禅と茶の「禅林美術展」を開催しています。

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法堂(左)と右にある方丈の間を通って、境内に西の道に行きます。

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浴室「宣明(せんみょう)」 1400年頃創建されたとみられ、現在のものは慶長初年(1596)に再建され、平成14年に復元修復されました。禅宗では、日常の立ち居振る舞いすべてが修行で、浴室は「心」と「体」の垢を落とす重要な修行の場だそうです。

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「天響楼(てんきょうろう)」は平成22年の建立。相国寺の名の由来でもある中国開封にある大相国寺が梵鐘を二つ鋳造し、その一つが日中仏法興隆、両寺友好の記念として寄進されました。「友好紀念鐘」の銘や「般若心経」の経文が記されています。

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鎮守「八幡宮」 創立当時は今出川通りの北にあって、今の御所八幡町はその旧跡といいます。足利義満が男山八幡からご神体を奉迎した時は男山八幡から当寺までの沿道ことごとくに白布を敷きつめたといわれています。

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「後水尾帝歯髪塚」 後水尾上皇は、江戸時代前期の承応2年(1653)に、焼失した大塔を再建し、その際、出家落髪の時の髪と歯を上層柱心に納めました。しかし、天明の大火(1788)で焼失し、その跡地に歯髪塚が建てられました。

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父の後陽成天皇は第2皇子・八条宮智仁親王に譲位することを望みましたが、徳川家康は第3皇子の擁立を求め後水尾天皇が誕生、孫娘・和子の入内を約束させました。家康の死後将軍となった秀忠は、天皇の寵愛の女官との間に皇子・皇女がいたことを知ります。

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禁中の風紀の乱れとして、女官の出家や関係者の処罰を強要しました。また、禁中並公家諸法度など朝廷権威がはく奪される苦しい時代を後水尾天皇は生き抜き、85歳で没しました。昭和天皇に次いで長寿だったそうです。

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「経蔵」 天明の大火によって焼失した宝塔は、万延元年(1860)に再建され経蔵を兼ねていました。その後、仏舎利が他の堂宇に移され、現在は経蔵としてのみ使用され、高麗版一切経が納められています。 平成19年に京都府指定有形文化財。

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かってあった仏殿の前から、向うは法堂です。

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放生池まで戻ってきました。塔頭のお坊さんが犬の散歩に出かけました。

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コメント

空の色とかが、一気に冬めいてきましたね。
次の台風で、一気に冬になりそうです。

投稿: munixyu | 2017年10月28日 (土) 12:00

★munixyuさん こんばんは♪
このところ天候が安定していなくて、外出する計画がたちません。前の台風では気が付かないうちに通り過ぎたので、今度も何事もないことを祈ります。

投稿: りせ | 2017年10月29日 (日) 00:56

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