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2017年9月22日 (金)

頂妙寺 仁王門通由来の日蓮宗本山

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日の記事の西寺町通を後に、仁王門通りを西に行くと鴨川の近くに頂妙寺があります。

「頂妙寺」は山号を聞法山(もんほうざん)という日蓮宗本山の一つです。だだし、宗教法人・日蓮宗では本山と末寺の区別を廃止(本末解体)しており、「本山」はかっての格式を示す称号です。(下は仁王門通に面する総門。)

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室町時代の1469年に上洛した日蓮宗の僧・日祝(にっしゅう、1427-1513)が武将・細川勝益(?-1502)から四条錦、万里小路富小路の領地を寄進され、1473年に寺院を創建したのが始まりです。(総門を入ると正面に立派な仁王門があります。)

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東山天皇により聞法山の山号を贈られ、勝益の法号の頂妙院殿から頂妙寺と名付けられました。(この仁王門が通りの名になった経緯は後ほど説明します。)

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通常の仁王門では金剛力士像を祀っている場合が多いのですが、こちらは快慶作と伝わる天部像が祀られています。左に「多聞天」、

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右に持国天です。どちらも奥の扉の中にいて、暗くて金網越しなので写真を撮るのに苦労しました。

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1509年将軍・足利義稙の命により新町通長者町(上京区)に移転、1523年には将軍・足利義晴の命により、高倉中御門(左京区)に移転しました。このころは洛中洛外の法華宗21本山の一つになりました。(仁王門をくぐると正面に本堂があります。)

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1536年に比叡山衆徒が日蓮宗宗徒を武力で洛外に追い出した事件(天文法華の乱)が起こりました。21本山は焼き打ちにされ、頂妙寺は堺に避難しました。(「立正安国」を説く日蓮像)

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1542年に後奈良天皇の勅許により洛内への帰還と布教が認められました。蓮池平右衛門尉秀明が高倉中御門の旧地を買戻して寄進、1546年に頂妙寺が再建されまれた。(本堂には本尊として十界大曼荼羅を安置しています。)

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本堂の横に「旧敷地寄進人 蓮池平右衛門尉秀明」と書かれた石碑が建っています。

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この後、本堂を中心に境内を右回りに見ていきます。広い境内には塔頭が8院もあり、ほとんど紹介できません。下は「菊神稲荷大明神」。 

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安土桃山時代の1579年、織田信長の命により、安土城下浄厳院で浄土宗と法華宗の宗論が行われ、法華宗からは当寺の3世・日珖、先日の記事の寂光寺(久遠院)の日淵ら3名が参加しました。「妙見宮」

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法華宗は宗論に敗れて詫状二通を書かされ、以後の布教を禁じられました。これは法華宗を弾圧するための信長の謀略といわれ、法華宗では「安土法難」と呼んでいます。

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安土桃山時代の1580年、豊臣秀吉は宗論の再検証を行い、法華宗の布教再開を許す宗門布教の許状を与えました。その許状を扁額にしたものが仁王門の中央に掲げられています。一昨年の特別公開では訴状の現物も公開されたそうです。

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江戸時代の寛文13年(1673)、関白鷹司房輔の屋敷から出火、内裏を含む上京一帯が類焼しました(寛文の大火)。下は鬼子母神堂。

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この火災で内裏が炎上しましたが、後の内裏再建において、隣接する街区の再編成が行われました。内裏に隣接して境内を構えていた頂妙寺は、鴨川の東岸の二条川東(かわひがし)の現在地に移転することになりました。

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寛文の大火は、昨日の記事の宝永の大火より35年前のことです。(下は立派な門構えの塔頭「真浄院」)

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太田久佐太郎(1891‐1955)の句碑「冠翁忌わがあしあとに耳澄ます」があります。「冠翁忌」とは江戸時代中期の京都の俳人・堀内雲鼓(ほりうちうんこ、1665‐1728)の命日忌(5月2日)のことです。

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堀内雲鼓は上の五文字を出し、付句の十二文字を作句する「冠句」を流行させました。昭和初期に京都の俳人・太田久佐太郎は、四季の生活風景と人生の哀歓を詠む抒情詩としての正風冠句を提唱、「文芸塔」を発刊しました。

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頂妙寺が移転したころの二条川東は、畑地で民家はなく南の三条に法林寺(だん王)が建っているだけでした。(境内の西北にある「客殿」、大きな建物です。)

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1708年の「宝永の大火」の後、御所の拡張のため丸太町北の民家と寺町筋の寺が二条川東へ移転する大規模な都市整備が行われました。(書院の玄関、頂妙寺事務所の看板があります。)

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その際、頂妙寺の前の仁王門通を起点として北の二条通との間に5筋、南の孫橋通との間に6筋の南北の通りが開かれました。(本殿の裏を通って境内の東側に行きます。)

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それらの通りは、ほとんど新富小路通のように移転前の通りの名に「新」を付けたもので、街区をそっくり鴨川の東に移した大規模な都市整備が行われました。昨日の記事で紹介した西寺町通と東寺町通(現東大路通)だけが例外の名前でした。「威徳善神」

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民家や寺の移転は仁王門通の近くから埋められ、この地域の開発の基軸となりました。遅くとも、宝永の大火後の移転の際にはこの通りが仁王門通の名で呼ばれたと考えられています。「大黒天堂」

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1788年には京都で史上最大といわれる「天明の大火」(どんぐり焼け)が発生して、この地域も炎上しました。しかし、この火災では街区の再整備は行われず、頂妙寺も現在地で再建されました。(「祖師堂」)

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境内の東に墓地があり、開基の武将・細川勝益、室町時代‐江戸時代の連歌師・里村昌休ら一族の墓とともに、江戸時代初期の絵師・俵屋宗達の墓があります。俵屋宗達は風神雷神図で有名な琳派の祖です。

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俵屋宗達作、烏丸光広賛の紙本墨画「牛図」が当寺に寄贈され(国立博物館寄託)、琳派400年を記念して公開されたそうです。(境内を一周して本堂前に戻ってきました。)

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コメント

こないだの台風で、一気に秋が深まりましたよね。
明日はもう秋分の日、ようやく秋本番。
そう言えば、秋刀魚はどこいったんだろう。

投稿: munixyu | 2017年9月22日 (金) 11:08

Hi

I already tried to search about this:

"A case (a turbulence of Astronomical Hwacheon) occurred in 1536 when the Hiei castle kidnaped the Nichiren Shogun with force. 21 Motoyama was burned, and Himejiji evacuated to Sakai. (Nichiren image preaching "Shita Aza country""

and i don't found any references.
Please contact me cause imvery interesting about this phenomenon

thanks

投稿: brunna | 2017年10月18日 (水) 23:55

Dear brunna♪
Thank you for visiting my blog.
The case occurred between two religious communities in Kyoto on DC 1536 is called 'Tembun Hokke Rebellion', 'Tembun Hokke Uprising', or shortly 'Hokke Rebellion', 'Hokke Uprising', etc.

I cannot describe the case exactly in English, so please try to search articles by the above keywords.

投稿: りせ | 2017年10月19日 (木) 20:53

堀内雲鼓?凄い名前ですね。
覚えやすいですが、うんこさんってかなり抵抗ありますよね。

投稿: munixyu | 2017年10月20日 (金) 12:16

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