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2017年9月 7日 (木)

正法寺と霊明神社

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

正法寺と霊明神社に行ってきました。先日霊山護国神社を訪れたときに、時間が遅くて入れなかったので気になっていました。おそらく参道の入口は二年坂に面していると思って歩いていると、「開山国阿上人参詣道 是ヨリ三丁」とある石柱がありました。

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この道は霊山正法寺道といい、現在ホテル建設中の「京大和」」の南にあります。「幕末志士葬送の道」ともいうようです。

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途中に石碑があり、「坂本龍馬 中岡慎太郎 など 幕末志士葬送の道」とあります。平成22年(2010)、NPO「京都龍馬会」が建立した記念碑です。

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かなり上ったところで、霊山歴史館横の道と交わります。向うの左手に霊明神社がありますが、後で訪れることにします。石段を登り切った突き当りが正法寺です。

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「正法寺(しょうほうじ)」は、山号を霊鷲山(りょうじゅせん)という時宗霊山派の本山です。山門は閉じていますが、横の木戸から入れます。

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この場所には、平安時代初めの延暦年間(728-805)、最澄(767-822)が天台宗の霊山寺を開いたとされます。当時の光孝天皇(830-887)の勅願所にもなりました。(山門の向こうにはさらに石段が続いていました。)

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鎌倉時代前期の元久年間(1204-1206)には、法然(1133-1212)が念仏道場としたともいわれ、浄土宗の影響を受けていたと考えられています。その後霊山寺は衰退しました。本堂が見えてきました。

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南北朝時代の1383年、住持の光英上人は時宗の国阿上人に教化されて寺を譲りました。国阿上人は正法寺と改めて時宗道場として再興、阿弥陀堂を建立しました。以後、時宗霊山正法寺派(霊山派)の本山になりました。

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本堂には、平安時代作の「阿弥陀三尊像」、同じく平安時代作の「地蔵菩薩像」、室町時代作の本尊「寝釈迦像」を始め、「雨宝童子像」、「国阿上人坐像」、「弁財天」、「大黒天」、廃された塔頭の遺仏など多数を安置しています。扁額には「流祖殿」とあります。

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地蔵菩薩は身代地蔵ともよばれ、洛陽四十八願所地蔵めぐり(京都四十八願寺)の第40番札所になっています。現在の本堂は、倒壊・焼失を免れて残された開山堂だそうです。向いに庫裏らしき建物があります。

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南北朝時代の後小松天皇(1377-1433)、室町幕府第3代将軍・足利義満(1358-1408)らも帰依して、正法寺は興隆しました。本堂の右奥に「鏡水(かがみのみず)」と呼ばれる井戸があります。

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名水とされ、藤原明衡(989 -1066)は詩で「洞水」、菅原孝標女(1008-1059)の『更級日記』では「山の井」と詠われています。かなり山を登ったところにありますが、今も水が湧いています。

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本堂の裏には鎌倉時代の板碑(はんぴ、いたび)があり、国阿上人の墓が納められています。「京都の三板碑」の一つに数えられ、他は紫野・西向寺、百万遍・了蓮寺)にあります。板碑は板石塔婆ともよばれ、板状に削った石碑を供養塔として使用したものです。

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さらに奥に墓地があります。「品川子爵夫妻の墓」。品川弥二郎は、長州出身で吉田松陰に学び、尊王攘夷運動に加わりました。維新後、内務大丞、枢密顧問官、宮中顧問官、宮内省御料局長などを歴任、1892年政治団体・国民協会を結成して副会頭となりました。

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室町時代には、正法寺は応仁の乱(1467-1477)や天文の乱(1532-1535)で被害をうけ、その後荒廃しました。安土桃山時代の天正年間(1573-1592)豊臣秀吉は寺領を寄進し、諸堂が復興、整備されました。

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江戸時代になると幕府から朱印地を受けてさらに栄え、山上には多くの伽藍が建ち並び、14の塔頭、末寺42を数えたといいます。眺望がきいたことから周囲一帯は遊興の場所になり、僧坊では料理などを供していました。(帰りは庫裏の横の道を下ります。)

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明治初年(1868)の廃仏毀釈や上知によって境内の大部分を失い、伽藍や塔頭も2つを残して廃され、以後衰退しました。さらに明治時代には残った本堂と庫裏を失火により失いました。道沿いに灯籠や石塔が散らばり、建物の石垣跡もあって廃寺のような雰囲気です。

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平成22年(2010)、400年ぶりに「日想観(にっそうかん)」が復活したそうです。江戸時代初期まで行われた行法で、極楽往生を願って西向きに座り、夕日を拝みます。西山の眺望がある正法寺ならではの修行法でした。

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正法寺は現在なお再興中といえます。秋は紅葉で美しい境内となりそうです。

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正法寺の参道途中に「霊明(れいめい)神社」があります。江戸時代後期の1809年、村上都愷(くにやす)が正法寺塔頭・清林庵が所有する山林1000坪を買い受けて、霊明社を建立しました。

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徳川政権下でも、この社では神道による葬式、神葬祭をが行われました。幕末の1862年、3代・村上都平(くにひら)のとき、神葬祭を勧める長州・毛利家とつながり在京志士の葬送の地になりました。

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仏式の葬礼は正法寺で、こちらは神道に基づく葬礼が行われました。安政の大獄以降は、殉難志士の「報国忠死の霊魂祭」も営まれました。(正面にさざれ石があります。)

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以来、長州の久坂玄瑞、池田屋事件で暗殺された吉田稔麿、近江屋事件で暗殺された坂本龍馬、中岡慎太郎、山田藤吉らが当社に葬られました。(向うは授与所)

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明治初年(1868年)、霊明社の境内地や墓地は上知になり、東山招魂社(霊山官祭招魂社)に譲られました。後に、東山招魂社は霊山護国神社となり、幕末の志士たちの霊地となりました。

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右が本社で、本殿に天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)、熊野三柱大神の菊理媛尊(くくりひめのみこ)、速玉男命(はやたまおのみこと)、事解男命(こととけおのみこと)を祀ります。

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相殿として天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)、天鈿女命(あめのうずめのみこと)、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、經津主命(ふつぬしのみこと)を祀っています。

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左は末社の猿田彦御神石です。この神石には伝承があります。神石は数百年にわたり五条御幸町の借家裏にあり、住人が何度も崇りに遭いました。家主が道者に依頼しお祓いをすと、夢に猿田彦大明神が顕れました。

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平安時代の源融の六条河原院造営のときに、御殿内に道祖神として祀られていたといいます。その後数百年に渡り長屋裏に隠れていましたが、この度悪水の不浄に耐えかね遷座を望んだと告げました。

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お祓いを行ったのが当社初代となる村上都愷で、神石をこの場所に遷座しました。霊明神社創建前の1807年のことです。この神石には道路安全、旅立ち安全、縁結び、厄除け、方位などのご神徳があるといわれています。

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正法寺と霊明神社はともに、幕末の志士達を葬りその墓を守ってきました。後に明治政府によって墓は霊山護国神社に移されましたが、その原点ともいうべき二つの寺社はもっと注目されてもよいと思いました。

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コメント

名水が湧き出したり、猿が出たりとか、
かなり山奥なのですね。
山も静かに、だんだん秋を迎えていくのですね。

投稿: munixyu | 2017年9月 7日 (木) 11:27

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