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2017年9月15日 (金)

本妙寺 赤穂義士と京都相撲

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の聞名寺(明眼地蔵)を出てさらに南に行くと、仁王門通に面して本妙寺があります。

「本妙寺(ほんみょうじ)」は山号を祥光山(しょうこうざん)という日蓮宗妙覚寺派の寺で、赤穂義士の寺ともよばれています。 山門の前に「鬼子母善神」と「赤穂義士墓 当山ニアリ」の石標が建っています。

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安土桃山時代の1574年、日蓮宗妙覚寺20世・日典が新烏丸丸太町に創建したのが本妙寺の始まりとされます。

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江戸時代の1708年、宝永の大火により焼失して、1728年に現在地に移りました。現在の本堂は本妙寺6世・日迢、7世・日正らにより再建されたもので、本尊・題目釈迦多宝仏を安置しています。

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1703年に赤穂浪士切腹の後、京呉服商・綿屋善右衛門は四十七士のうち吉田兼亮(忠左衛門i、その子・兼貞(澤右衛門)、その弟・貝賀友信(弥左衛門)、および、翌年病死した友信の妻・おさんの遺髪を得て、本妙寺で石碑に納め、合祀供養しました(1704年)。

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昭和5年(1930)に友信の子孫が、大石内蔵助の書、遺品5点、遺墨70点あまりを当寺に寄贈し、その年建立された義士堂(宝物館)に納められました。綿屋善右衛門と赤穂浪士との関係は後で説明するとして、義士堂の横に大きな石碑があります。

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「八ツ車留吉碑」と刻んでいます。留吉は明治時代中頃に「京都相撲」で活躍した力士で、相撲頭取でもありました。頭取は現在の大相撲の年寄、あるいは親方に相当します。

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相撲の歴史は古く、奈良時代末の793年7月7日桓武天皇の時に相撲節会(天覧相撲)が行われ、宮廷での相撲節会が毎年の恒例となりました。833年には仁明天皇が「相撲節会の真の目的は武力鍛錬である」との勅命を下し、全国の力士を集めて競わせました。

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しかしながら、1174年高倉天皇のときの相撲節会の後、源平合戦が起こり、400年近く続いた相撲節会は廃絶しました。

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江戸時代になると、京都、大阪、江戸で「勧進相撲」が行われました。相撲の興行を行い、その収益の一部を神社仏閣の再建や修繕費用に充てるのが目的でした。京都では1645年糺の森で行われた勧進相撲が最初です。

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勧進相撲は人気でしたがトラブルも多く、幕府は1648年勧進相撲禁止令を出しました。1680年代に江戸で禁止令が解かれ、京都で再開されたのは、1699年岡崎天王社の勧進相撲からです。そこで初めて番付が作られ、三役の名称が登場しました。

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その後、四季勧進相撲興行(大相撲)が定着して、毎年江戸で2回、京都、大阪で各1回勧進相撲が行われました。現在の大相撲のように力士の集団は各地を回りますが、それぞれの拠点(部屋)は三つの都市に分散していました。

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幕末になり、東京相撲を抜けた大横綱・陣幕が大坂相撲を独立した運営組織に変えました。京都では華の峰、兜潟という力士が勤皇の志士としての活躍を認められ、独自の相撲興行が許され、京都相撲は独立した組織として興行を始めました。

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明治7年(1874)から三都対等合併相撲が始まり、京都の力士たちは江戸、大坂の力士に対抗して好成績をあげ、京都で横綱も登場しました。当時は大関が最高位で、横綱は相撲の家元五条家から特別に与えられた称号です。(「祥光山荘」の額があり玄関のようです。)

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しかし東京が都市として発展するにしたがって有力な力士が東京に集中し、京都相撲は次第に興行が難しくなります。明治45年(1912)二条城に京都国技館が建てられ京都相撲の復興の動きがありましたが、八ツ車留吉が活躍したのは京都相撲が困難な時代でした。(こちらは庫裏・寺務所の玄関)

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赤穂浪士の話にもどり、綿屋善右衛門は吉田兼貞の叔父で、赤穂藩の出入り商人でした。1701年の赤穂藩取りつぶしの後は浪士たちを支援し、友信、妻・おさん、娘・お百を屋敷に住まわせました。(境内の西にある墓地に向かいます。)

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善右衛門は浪士の討入り後、屋敷にあった重要書簡類を焼却処分し、残りを友信の娘・お百に託したといわれていました。それらが友信の子孫に伝えられていて、昭和になって本妙寺に寄贈されたものと思われます。

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友信の切腹後、善右衛門はその妻子の世話をしました。友信の家が代々法華宗だったことからこの本妙寺を菩提寺として、友信らを合祀供養したのです。

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吉田兼亮は1702年に江戸に入り、すぐさま仇討ちを主張する急進派の説得にあたり、大石らの江戸入りの手配をしました。討入り後は、大目付・仙石久尚の屋敷へ出頭して口上書を提出しました。 吉田兼貞は父の兼亮と行動を共にしました。(奥の歴代住持の墓)

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貝賀友信は京都で善右衛門の屋敷に身を寄せ、江戸にいた兄・兼亮からの情報を山科の大石らに伝える連絡係を務めました。また、元赤穂藩士120名に対して、浅野家再興が絶望的として血判状を返却して、相手の反応を見てその真意を確かめました。

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4名の合祀石碑は損傷が激しいので義士堂に移され、墓地には新たに復元された碑が立てられています。4名の卒塔婆の奥の「冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士」は浅野内匠頭の戒名です。

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三名を含む赤穂藩士と主君・浅野内匠頭は高輪の泉岳寺に葬られ、討ち入りした12月14日には「義士祭」が盛大に行われています。

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同日、この本妙寺でも「元禄義挙記念祭」の法要が行われ、義士堂が一日だけ公開されるそうです。

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コメント

萩の花でしょうか。
だんだん秋の花が出て嬉しいですよね。
そう言えば、今年はお月見が10月と遅いですよね。

投稿: munixyu | 2017年9月15日 (金) 12:38

★munixyuさん こんばんは♪
今日は日中も涼しく感じました。この分だと、お月見の頃は肌寒くなるかも知れませんね。
ACジャパンのサイト以外で、この前初めてCMを見ました。素敵でしたよ。

投稿: りせ | 2017年9月16日 (土) 00:23

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