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2017年9月21日 (木)

西寺町通の寺院たち

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

「西寺町通」は仁王門通と二条通の間にある南北の通りで、東大路通の一筋西にあります。両側のすべてが寺院という京都でも珍しい通りです。この通にある11の寺院を南から順に見て歩きます。寺院名の後ろの東西は通りの東か西にあるかを表しています。

「善香院」(東)は浄土宗の寺院ですが、詳しい由緒は分かりません。昨日の記事で紹介したように、江戸時代の「宝永の大火」(1708年)の後の都市整備計画によって、かって寺町通にあった寺院がこの付近に移転させられました。

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「正住寺」(西)も浄土宗の寺院です。西寺町通の両側は「正住寺町」というそうです。寺院が移転してきた地域は「二条川東(かわひがし)」とよばれ、東西は東大路通から鴨川、南北は三条通から二条通の一帯(新洞学区)です。

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「正念寺」(西)も浄土宗の寺院です。寺院の移転は宗派ごとに計画的に区分けされ この西寺町通には主として浄土宗の寺院が並びました。この寺は山門が開いていたので、中に入らせていただきました。

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本堂には本尊・阿弥陀如来を祀っています。扁額から山号は「慈眼山」のようです。

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寺院明細帳や過去帳などの史料から西寺町通の寺院は、南から順に移転してきたことが確かなようです。(下は羅漢堂の内部。)

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このあたりの正住寺町という町名は、正住寺が最初に移転してきたからかも知れません。(観音堂もありました。)

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「専稱(せんしょう)寺」(東) 稱は称の旧字体です。  

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宝永の大火以前のこのあたり(二条川東)は聖護院村と岡崎村の畑地で、もう少し西にある頂妙寺と法林寺だけが建っていたそうです。(本堂には阿弥陀如来を祀っています。)

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宝永の大火で禁裏御所まで類焼したので、その後の整備計画では周辺の公家町の地域を拡張して、公家の邸宅の間にあった民家を二条川東に移転させました。(この寺は山門を入った左に「摩利支天尊」を祀っています。)

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このあたりに、新東洞院通のように「新」がつく通りが多くあるのは、かっての街をそっくり移転させたからです。(境内のあちこちに可愛い焼き物が置いてありました。)

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また、御所の近郊、寺町通の西から烏丸通、丸太町通以北に、公家の邸宅だけからなる純粋な公家町が形成されました。(お寺の境内で河童を見たのは初めてです。)

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「大蓮(だいれん)寺」(西)は、山号を引接山(いんじょうざん)、院号を極楽院という、浄土宗知恩院派の寺院です。この通りで唯一詳しい由緒が分かっている(公開している?)寺院です。

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安土桃山時代の1600年、専蓮社深誉(しんよ)上人がお堂を建て、阿弥陀如来を安置したのが始まりで、当初は下京区五条の毘沙門町にありました。(本堂には円仁作といわれる本尊・阿弥陀如来を祀り、女人救済、安産にご利益があるとされます。)

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江戸時代前期の後光明天皇の女官・庭田秀子が難産となり、大蓮寺に安産祈願の勅命が下りました。2世・霊光和尚の安産祈願によって無事に第1皇女・一宮内親王が誕生したことから、安産祈願の寺として知られるようになりました。

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本堂の前の「法勝寺の礎石」 法勝寺は平安時代から室町時代まで岡崎周辺に建てられた六勝寺のひとつで、白河天皇が建立し後に院政の舞台となりました。応仁の乱以降衰退してその後廃絶しました。

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明治の神仏分離令によって廃寺となった祇園社(現在の八坂神社)の観慶寺から、多くの仏像がこの寺に移されました。そのうち、十一面観音立像(重文)は院派・慶派の祖・覚助の作とされ、洛陽三十三観音霊場の札所の本尊で、厄除けのご利益があるとされます。

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明治から大正にかけての18世住職の籏玄教(はたげんきょう)は「走り坊主」の通称で知られ、托鉢をしながら市内を走り回る積極的な勧進を行い、寺を再興しました。蓮の寺としても知られています。

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大連寺は創建以来何度か移転をしていますが、太平洋戦争末期の1944年、五条坂の強制疎開によって現在地に移り、この地にあった常念寺と合併して現在に至っています。

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「専念寺」(東)も浄土宗の寺院ですが、詳しい由緒は分かりません。

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「本正寺」(西)は顕本法華宗の寺院です。他は浄土宗の寺院ばかりですが、法華宗(日蓮宗)の寺院はあちこちに散らばって配置されています。法華宗は江戸幕府によって弾圧された歴史があることと関係があるかも知れません。、、

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こちらも山門は開いていました。これから下はすべて浄土宗の寺院です。

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「三福寺」(東)は浄土宗西山深草派の寺院で、本尊の地蔵菩薩像は夢見地蔵と呼ばれ秘仏とされているそうです。

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「少林寺拳法」の大きな石柱が立っています。山門の看板には「少林寺拳法洛東道院」とあります。北(左手)に道場があります。

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宝永の大火の後の都市整備では、町家を西の内野(うちの,平安京大内裏旧地)にも移転させ、結果として市街地が拡大しました。下は「西昌寺」(西) 綺麗な庭が見えますが山門は閉じています。

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その後も京都では何度も大火事が起こりましたが、その復興はそれぞれの場所で建物が再建され、宝永の大火後のような町の再編成は起こりませんでした。下は「見性寺」(西) 西側の一番北にあります。

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結果として、宝永の大火後の都市整備による市街の範囲や町並みは、その後の昭和20年代までほとんど変化しませんでした。下は「佛光寺」(東) こちらも山門が閉じていますが、その横に広い出入り口があります。

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昭和30年代以降の高度成長期には京都でも市街地の開発が進み、町並みは大きく変化していきました。(中には近代的な建物が建っていました。左は大きな立体駐車場でこの寺の経営のようです。)

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それでもいくつかの地域では、かっての町並みが残っています。民家としての西陣の一部や花街周辺、寺町ではこの西寺町通が最も昔の雰囲気を残しているといえます。

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二条通まで来ました。

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コメント

凄い数の石仏。
これだけあれば石仏も楽しそうですよね。

投稿: munixyu | 2017年9月21日 (木) 11:04

自転車のお坊さん。。エコですね!w地図で確認して本当にびっくり。。。寺町というか寺銀座とでもいうか。。。「西」が付いているのは前回の通りに対してのことでしょうね。通りというよりも2~3ブロックに渡ってごちゃっと詰め込んだような。。。走り坊主って言葉はどこかで聞いたことがあります。東大路通の方はバスの待ち時間が長い時は歩いちゃったりしてますが、車の往来は激しいし、あまり楽し気な景色でもないなぁ。。なんて思いつつ歩いてるので、今度は一本こっちの通りを歩いてみることにします~

投稿: ばるさろ | 2017年9月21日 (木) 16:28

★munixyuさん こんばんは♪
境内に石仏がいっぱいあるのはいろいろな事情があるのだと思います。同じ形の小さな像がたくさんあるのは、何らかの願いを込めて奉納されたものだと思われます。いろいろな形の古い石仏があるのは、何らかの事情で寺に持ち込まれたものでしょう。
いずれにしても、現在はそのお寺で供養してもらって心安らかに成仏しているのではないかと思います。

投稿: りせ | 2017年9月21日 (木) 23:26

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