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2017年8月19日 (土)

京都御苑歴史散歩2 東部の自然と藤原氏

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

今日は京都御苑東部の散策路を歩きます。ここは御苑の中でも自然が豊かでひっそりとしていますが、かっては藤原氏の摂関政治の舞台となった場所でもあります。昨日と同様石薬師御門が出発点で、そこから「母と子の森」の中を南に行きます。

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御苑の一番東の散策路は木に覆われ、塀際の生垣は立ち入り禁止になっています。自然のままに放置して枝打ちをしておらず、大きな枝が落ちてくる危険があるからだそうです。この生垣のおかげで、このあたりは深い森林のような植生になっています。

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しばらく行くと鳥の水場があります。京都御苑は野鳥の楽園でもあり、100種類以上が目撃されているそうです。その中にはミゾゴイ、ヤマシギ、ヤツガシラ、キマユムシクイ、ノゴマ、マミジロキビタキなどの珍鳥も含まれ、平地では珍しいゴジュウカラも見られるそうです。

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水場には近づけないようになっていて、私のカメラではあまり鮮明には写りません。

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暑い日だったので水に浸かっています。

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すぐ南に広場があり、森の文庫やベンチがあります。大木の周りが立ち入り禁止になっているのは枝が落ちるからだそうです。

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文庫の開設期間は4月1日から11月30日(雨の日を除く)の毎日9:00~16:00だそうです。子供たち以外に、休憩中のサラリーマンの姿をよく見かけます。

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もう一筋東にも散策路があって、その周囲は「コオロギの里」とよばれています。こちらの散策路が迎賓館の東を通って南に続いています。

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迎賓館の塀の傍に「染殿第跡」の看板と「染殿井」という井戸跡があります。平安時代初め、このあたりには藤原良房の屋敷・染殿第がありました。良房は嵯峨天皇に深く信頼された優秀な臣下で、その皇女・源潔姫を嫁にもらいます。

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嵯峨上皇の支援で急速に昇進、妹の順子は皇太子・正良親王の妃となり道康親王を生みました。嵯峨上皇の没後の政変で道康親王が立太子となり、2年後即位して文徳天皇となります。すると、潔姫が生んだ明子を女御に入れ、惟仁親王を生みました。

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染殿第の南に仏心院を建てて御所として明子を住まわせました。文徳天皇は若くして亡くなり、良房は9歳の惟仁親王(清和天皇)を即位させます。(このあたりは生きた化石といわれるメタセコイヤの林です。TOPの写真も)

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清和天皇は幼少の頃、良房の屋敷で育てられ深く信頼していました。元服後の866年に起きた応天門の変を良房が大伴氏を追放して解決すると、天皇は外祖父・良房を臣下として初めて摂政に任命しました。(迎賓館の南の通りで、この左の草地に入ります。)

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872年良房は亡くなり、876年清和天皇は27歳で譲位し、879年出家して染殿第の南の仏心院を清和院と改めて移ります。後に畿内巡幸の旅へ出、最後は良房の養子・藤原基経の粟田山荘で没し、金戒光明寺に火葬塚があります。(ここは「バッタガ原」というそうです。)

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仙洞御所の北に来ました。この門は清和院にちなんで「清和院御門」と名付けられました。

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清和院御門を外から。右手の御苑の塀沿いに梨木神社があります。神社の境内には染井(そめのい)があり、京都三名水の一つとなっています。こちらも染殿第の遺構とされていますが、御苑の染殿井とは塀を隔ててごく近い距離にあります。

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もう一度門を入ると右手に「土御門(つちみかど)第跡」の看板があります。良房の摂政に始まる藤原氏の権勢は、藤原道長の時代に頂点に達し、その屋敷が土御門第です。道長の姉・詮子(円融天皇女御)は、東三条院となった後にこの屋敷を御所としました。

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道長の長女・は藤原彰子は一条天皇中宮となり、懐妊するとこの屋敷に住み、後の後一条天皇と後朱雀天皇を出産します。その様子は彰子とともに屋敷に移り住んだ紫式部によって、『紫式部日記』や『紫式部日記絵巻』に描かれています。

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彰子の妹・嬉子もここで後冷泉天皇を出産、後一条、後朱雀、後冷泉ら三代の天皇の里内裏ともなり、藤原道長の栄華を象徴する邸宅でした。下は迎賓館の前の通り。

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迎賓館の北の通りに戻って、その西にある屋敷跡を見に行きます。今度は芝生の中の道を南に行きます。

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「橋本家跡」 和宮親子(ちかこ)内親王(1846-1877)は、仁孝天皇の第8皇女で、孝明天皇の異母妹でした。和宮は、権大納言・橋本実久の娘・典侍の経子を母としてこの地で生まれ、14年間をこの屋敷で過ごしました。

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公武合体を目指す幕府の意向に孝明天皇も逆らいきれず、有栖川宮親王との婚約を破棄1861年に和宮は14代将軍・徳川家茂正室として降嫁しました。1866年に家茂が死去し和宮は落飾(出家)、同年孝明天皇も崩御します。

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大政奉還の後は徳川家の存続のために奔走、1867年甥の明治天皇が即位し徳川家の処遇が決定されると、ようやく京都に戻ることができ聖護院の屋敷を御殿としました。明治7年東京の天皇や橋本家の要請で再び京都を離れ、二度と戻ることはありませんでした。

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「学習院跡」 江戸時代末、閑院宮家出身で皇位を継いだ光格天皇は、公家の教育に取り組み、1847年、御所の建春門外に学習所を開講しました。教科は儒学を主としてこれに国学を取り入れたもので生徒は堂上・非蔵人の公家の子弟でした。向うが建春門です。

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明治以後の政治的混乱や生徒の減少によって中断や再編成があり、明治3年京都府に移管され京都府中学となりました。一方、明治10年に皇族・華族のための教育機関が宮内省管轄の官立学校として設立され、学習院の名と伝統が引き継がれました。

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下は「桜松」 かつて、クロマツにヤマザクラが生えており、「松木の桜」とも呼ばれていました。枯れて倒れたクロマツの空洞に現在でもヤマザクラが花を咲かせるそうです。

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コメント

鳥や虫も秋めいてきましたね。
鈴虫も鳴き始めたと聞きます。
コオロギや鈴虫の鳴く夜長も、もう少しです。

投稿: munixyu | 2017年8月19日 (土) 11:26

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