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2017年8月 3日 (木)

東本願寺 その歴史と両堂

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の渉成園を出て、西にある東本願寺を訪れました。上と下は「御影堂門」、以下登場する堂宇はすべて明治時代以降の再建です。噴水は京都市役所などを設計した武田五一によって大正3年(1914 )に造られました。

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「真宗本廟」は真宗大谷派の本山で東本願寺とも呼ばれます。宗祖・親鸞聖人(1173-1262)の門弟らが、その遺骨を大谷(京都市東山山麓)から吉水(京都市円山公園付近)の北に移し、廟堂を建て宗祖の影像を安置したことが始まりです。「御影堂」

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親鸞聖人の娘覚信尼(かくしんに)は門弟から廟堂をあずかり、自らは「留守職(るすしき)」として真宗本廟の給仕を務めました。以来、真宗本廟は親鸞の開顕した浄土真宗の教えを学ぶ根本道場として、親鸞聖人を崇慕する門弟たちにより守られてきました。

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第3代覚如(かくにょ)上人(1270-1351)の頃、真宗本廟は「本願寺」の寺号を名のるようになり、やがて御真影を安置する廟堂(現在の御影堂)と、寺院としての本尊を安置する本堂(現在の阿弥陀堂)が並存するようになりました。(御影堂の西)

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戦国時代、第8代蓮如(れんにょ)上人(1415-1499)は、宗祖・親鸞聖人の教えを確かめ直しつつ、生涯をかけて民衆に教えを広め、本願寺教団をつくりあげました。このことから、蓮如上人は「真宗再興の上人(中興の祖)」と仰がれています。(向うが「阿弥陀堂」。)

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東山にあった本願寺は比叡山との関係で一時退転し、蓮如上人の北陸布教の時代を経て、山科に再興。その後、大坂(石山、現在の大阪市中央区)へと移転しました。(御影堂と阿弥陀堂を合わせて「両堂」とよび、両堂だけが拝観できる建物です。)

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しかし、第11代顕如上人(1543-1592)の時代に、織田信長との戦い(石山合戦)に敗れ、大坂も退去することとなります。この際、顕如上人の長男教如(きょうにょ)上人(1558-1614)は、父と意見が対立し、大坂(石山)本願寺に籠城したため義絶(離縁)されました。

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天正10年(1582)に義絶は解かれ、天正13年(1585)本願寺は豊臣秀吉により大坂天満に再興。さらに天正19年(1591)京都堀川七条に本願寺は移転しました。これが、現在の西本願寺(浄土真宗本願寺派の本山)です。

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父・顕如上人の没後、一度は教如上人が本願寺を継ぐも、秀吉より隠居させられ、弟(三男)の准如(じゅんにょ)上人が後を継ぎました。これは、母・如春尼が秀吉に働きかけたからだといわれています。

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しかし、その後も教如上人は活動を続けていました。慶長3年(1598)に秀吉が亡くなり、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、教如上人に接触して、慶長7年(1602)に京都烏丸六条・七条間の地を教如上人に寄進しました。(阿弥陀堂)

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翌年上野国妙安寺(現在の群馬県前橋市)から宗祖・親鸞聖人の自作と伝えられる御真影を迎え入れ、慶長9年(1604)御影堂を建立し、新たな本願寺を創立しました。これが「真宗本廟」で、教如上人は「東本願寺創立の上人」とされています。(阿弥陀堂門を外から。)

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真宗本廟は、その後四度にわたって焼失、現在の堂宇は明治28年(1895)に再建されたものです。境内の南東の隅に鐘楼があります。

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江戸時代の東本願寺は、創立時から徳川幕府との関係は良好で、寺院と門徒の間には、寺檀(じだん)関係(檀那寺と檀家の関係)による結び付きがありました。南の塀の近くには自然があります。

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幕末の戦火で両堂を失い、明治時代に入ると、新政府による神仏分離令やその後の廃仏毀釈(仏教弾圧)によって、東本願寺も苦境に陥りました。下は同朋(どうぼう)会館。

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厳しい財政状況のなか、あえて新政府への協力を惜しまず、また全国の門徒による多大な協力によって財政再建が果たされ、明治28年に両堂が再建されました。(総合案内書・お買物広場)

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しかし、一方で教団は江戸時代の封建制度の流れを汲む体質を残したまま、戦争に協力していくことにもなりました。

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そのような中で、当派の僧侶・清沢満之(まんし)(1863-1903)は、教団の民主化と近代教学の確立を目指して、宗門改革を提唱しました。

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この運動は、昭和37年(1962)に「同朋会(どうぼうかい)運動」として実を結び、以後50年にわたって東本願寺の信仰運動の基幹となっています。向うは「参拝接待所」。

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しかしながら、教団の改革運動は始めからすべての人たちに受け入れられた訳ではなく、昭和44年(1969)に教団問題が顕在化しました。歴代の法主(ほっす、法統伝承者)は本願寺住職、宗派の管長の3つの職を兼ねた絶大な権限を持っていました。

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そのような伝統的な形態の教団を支持する勢力(末寺)とともに、大谷家の門首が真宗大谷派(東本願寺の宗派)を離脱して「浄土真宗東本願寺派」を結成しました。さらに、二つの勢力が意見の対立から真宗大谷派を離脱しました。(御影堂の北にある「高廊下」)

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世間では「お家騒動」ともいわれ、微妙な問題なので詳しくは立ち入りませんが、実際には1万近くあった末寺の95%以上が改革運動を支持して真宗大谷派に留まっています。

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最後に「本願寺水道」について。明治30年(1897)に完成した本願寺水道は、琵琶湖疏水の蹴上から44mの高度差を利用して水を東本願寺の掘や境内、渉成園に引き込む専用水道でした。何度も火災に見舞われてきた東本願寺にとって画期的な防火設備でした。

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ところが、市街地に埋設された送水管の老朽化のために、2008年に送水がストップされています。琵琶湖疏水とともに、京都の近代化に寄与した産業遺産として注目されています。

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一方で、自然の高度差だけを利用して動力を使わないので、大規模震災時の防災に有効で、都心部の焼失家屋を半減させるとの研究もあります。そのため、送水の再開に向けて様々な提案や活動が行われています。

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コメント

少し変わった建物ですね。
広さや大きさ的に平安時代とか、もっと古い時代と間違えそうです。

投稿: munixyu | 2017年8月 3日 (木) 10:12

本願寺は大きいけど、どこから入っていいのか。。。そもそも入っていいのかどうかすらよくわかってませんでしたw大きな改修工事をしていたり、新しい建物があったりで、観光寺とちょっと違う雰囲気ですよね。宗教に限らず、組織が巨大化すると困った問題がでてくるもんですねぇ。。。
別の話で恐縮ですが、中京区で建物の遺構が出たそうですね。平安前期ということだそうですが、藤原氏隆盛以前の他の氏族のものだったら面白いなぁ。。と思ってます。どのあたりの場所なのか
もし情報があったら教えてくださいっ!

投稿: ばるさろ | 2017年8月 3日 (木) 23:22

★ばるさろさん こんばんは♪
今回発掘された邸宅跡は、島津製作所三条工場の敷地内で、平安京では右京三条三坊五町にあたる位置だそうです。近くの紙屋川の氾濫などがあり、紀元840年には廃絶したと考えられています。建物も平城京の特徴があり、出土品から三位以上の貴族、おそらく大納言クラスだと思われています。こうなると数人しか候補がいないそうですが、誰も名前を口に出しません。

投稿: りせ | 2017年8月 5日 (土) 23:53

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