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2017年8月13日 (日)

霊山護国神社 維新の志士の墓を訪ねて

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

お墓参りというわけではないのですが、霊山(りょうぜん)護国神社に行ってきました。正式名称を「京都霊山護国神社」といい、明治維新で亡くなった志士、第二次世界大戦までの京都府出身の戦死者などを祀る神社です。

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坂道の途中に、「維新の道」の石碑があります。戦後荒廃していた神社を整備するために、1968年に霊山顕彰会が発足して、この参道を「維新の道」と名付けました。石碑の文字は初代会長の松下幸之助の揮毫。

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明治元年(1868)明治天皇の太政官布告により、霊山官祭招魂社として全国に先駆けて創立されたのが始まりです。布告は「維新を目前として国難に殉じたる志士達の御霊を奉祀するために当、霊山の佳域に祠宇を設け、英魂を永く合祀せよ」というものでした。

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高知、熊本、岐阜、福岡、鳥取、茨城、山口、京都の各招魂社が建立され、各藩の戦没者が祀られました。(本殿前には8月13日~16日に行われる「みたま祭」の提灯が飾られていました。)

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その後、第二次世界大戦の戦死者の増大に従って、1939年招魂社を護国神社と改称して各都道府県に設置、それぞれの戦没者を祀ることになりました。

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霊山官祭招魂社の時期の祭神は549柱で、古くは天誅組の首将中山忠光卿を始めとし久坂玄瑞、坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村寅太郎、等です。その後、東福寺、大雲院、泉涌寺の官祭招魂社と明治41年までの合祀を含め勤王の祭神数は1356柱となりました。

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さらに、日清・日露戦争、満州・支那事変(日中戦争)、第2次世界大戦の戦没者を合祀して今日に至ります。平成13年10月13日現在の祭神数は73,011柱だそうです。

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社務所の左に墓地への入口があります。

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駅の改札のように自動です。

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かなりの階段を上るので夏は大変ですが、この日は風があって日陰はそれほど暑くなかったです。

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何度か階段を折り返すと、龍馬の墓がある場所の赤い柵が見えてきます。

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上の石段の途中に高知県の忠魂社があります。明治2年に旧土佐藩が建立し、祭神として坂本龍馬、中岡慎太郎他100名を祀ります。昭和43年に高知県人会篤志家によって再建されたそうです。

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ここには屋根がついた休憩所があります。

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ここからの眺めは、京都を特集した番組のオープニングでよく使われる風景の一つです。他に、庚申堂前からの八坂通や陸橋からの東寺の五重塔などもよく見ます。

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奥に吉村虎太郎(寅太郎)の墓があります。土佐藩出身の志士で、1863年中山忠光を擁立して天誅組を組織して大和国で挙兵するも、幕府軍の攻撃を受け敗れて戦死(天誅組の変)。その後の討幕の志士達に影響を与えました。右上に仲間の墓が並んでします。

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一段上に1867年京都近江屋で暗殺されま坂本龍馬と中岡慎太郎の墓があります。この墓は翌年海援隊と近江屋の資金によって建てられました。上の吉村虎太郎は逆賊とされていましたが復権、明治24年に龍馬、慎太郎とともに正4位を送られました。

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隣の銅像の龍馬は、寺田屋のお登勢が伏見在住の画家・田中松穂に描かせた遭難直前の肖像画をモデルにしたものです。この像を拡大したものが円山公園にあります。

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上の段に熊本忠魂社があり、横井小楠(しょうなん)の墓があります。小楠は熊本藩において藩政改革を試みるが、反対派による攻撃で失敗。その後、福井藩の松平春嶽に招かれ政治顧問となり、幕政改革や公武合体の推進などにおいて活躍しました。

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優れた国家論を持ち吉田松陰、勝海舟とも交流、私塾を開くと坂本龍馬など幕末の志士や後の明治新政府の中枢の多くが訪れました。明治新政府の参与に命じられ上京しますが、明治2年正月に京都の下御霊神社の横で十津川郷士ら6人に襲われ死亡しました。

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十津川郷士は朝廷の護衛を務めるなど特別な関係にあり、暗殺の理由は日本のキリスト教化を企んでいるというものでした。翌年政府の開国政策に不満をもつ保守派の策謀とわかり名誉回復するも、熊本招魂社の墓に埋葬を許されたのは昭和61年になってからです。

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墓地の数段高い場所に山口招魂社があり、その一番上に「桂小五郎(木戸孝允)の墓」 があります。長州藩出身の尊王攘夷派の中心人物として京都で活躍しました。維新後は総裁局顧問として迎えられ、封建的諸制度の解体と文明開化の推進に努め、

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参議内閣制を整えたことで知られます。京都で小五郎は常に命を狙われ、相思相愛の仲の芸妓・幾松が彼を支えたことはよく知られています。維新後に幾松は正妻・木戸松子となり、明治政府で活躍する孝允(小五郎)につねに寄り添いました。

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孝允が明治10年に急死すると、松子は京都・木屋町に戻り、剃髪して翠香院と号して、毎日この墓にお参りしたそうです。左が松子の墓です。幕末・維新の動乱期を支え会い、身分差を超えて結婚して添い遂げた珍しい例といわれています。最後に記念碑を一つ。

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京都相撲横綱の「錣形岩衛門の碑」 しこ名を兜潟(かぶとがた)といい、京都相撲横綱、上方相撲頭取(親方)を務める一方、勤皇派の力士として禁裏守護補佐力士隊長に任命され王政復古に貢献しました。

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明治4年、勤皇派としての数多くの功績に対して、五條家から八坂神社に相撲場が下賜されました。五條家は当時最高位の大関の力士に横綱免許を与える権限をもっていました。墓は鳥辺山にありますが、昭和45年子孫によってこの碑が建立されました。

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神社と向き合って「霊山歴史館」が建っています。最初に述べた霊山顕彰会が運営する幕末維新史の総合博物館で、現在の展示は「新選組 義に生きる!!」です。鳥居の傍から無料シャトルバスが運行しています。

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コメント

今日は誕生日です。ということは・・・
りせさん、お誕生日おめでとうございます。
同じ誕生日ですよね。
いつものことですがお盆は静かですよね。

投稿: munixyu | 2017年8月13日 (日) 14:01

★munixyuさん こんばんは♪
今年のお盆は、六道まいりや万灯会など京都の昔ながらの行事に行ってきました。後は今日(16日)の送り火が締めくくりです。

投稿: りせ | 2017年8月16日 (水) 22:40

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