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2017年8月31日 (木)

清閑寺 小督と与謝野礼厳

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

清閑寺に行ってきました。本願寺北山別院の記事を書いたときに与謝野礼厳の歌に引かれるものがあり、彼が晩年を過ごしたこの寺をまた訪れたくなりました。この日は五条通から車でここまで上ってきました。

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「清閑寺」は山号を歌の中山という智積院の末寺です。平安時代初めの802年、比叡山の紹継(しょうけい)法師が開創したのが始まりとされます。当初は天台宗延暦寺に属していましたが、後に荒廃しました。

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平安時代中頃の長徳2年(996)、伊予守佐伯公行(きんゆき)が再興して、一条天皇の勅願寺となりました。当時の寺領は清水寺と同じくらい広く、以後皇室とのかかわりが続きました。当時の隆盛は、このあたり一帯の地名・清閑寺町に残っています。

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平安時代末の女官・小督局(こごうのつぼね)は美貌と琴の名手として知られ、高倉天皇の中宮・建礼門院徳子(平清盛の娘)の侍女となりました。

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高倉天皇は当時最愛の寵姫を亡くして悲嘆に暮れていました。見かねた中宮は、天皇を慰めようと小督を紹介すると、小督は天皇の寵愛を一身に受けるようになりました。

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怒った中宮の父・平清盛によって小督は追放されましたが、嘆いた天皇は小督を密かに宮中に呼び戻し逢瀬を重ねました。そして1177年に二人の間に範子内親王が生まれました。(本堂には本尊・千手観音を祀り、その前に「小督剃髪の本堂」の石碑があります。)

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そのことが平清盛の逆鱗に触れ、小督は清閑寺で出家させられました。高倉天皇は退位させられ、その一年後に19歳で亡くなり、遺言によって清閑寺法華堂に葬られました。

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法華堂は失われましたが、その所在地が現在の天皇陵になっています。下は清閑寺の参道石段下から見た「六條天皇陵 高倉天皇陵」。六條天皇は生後7か月で即位、3歳と3か月で譲位させられ、史上最年少の上皇となりました。

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その後、六條院はこの寺で後白河院に養育されましたが、安元2年(1176)11歳8か月で亡くなりこの寺に葬られました。二つの天皇陵は後に整備されたものです。

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小督の正確な没年は分かっていませんが、清閑寺の高倉天皇の墓の傍に葬られました。境内には供養塔(宝筐印塔)があります。

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右は「小督の桜」、中央の石は「要(かなめ)石」と呼ばれ、山の間に見える景色を扇に、石を扇の要に見立てています。この石は六條天皇の小堂跡とされます。

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要石の横に、「願いあらば あゆみをはこべ 清閑寺 庭に誓いの要石あり」(よみ人しらず) 昔から願いがかなうとされる石です。

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「清閑寺窯発祥地」 当寺の僧・宗伯が開いた窯跡です。宗伯は京焼の名工・野々村仁清の師で、江戸時代の寛永年間(1624-1644)からここで色絵陶器を焼きました。後に五条坂に移転を命じられ、この地は清水・五条坂窯業の発祥地でもあります。

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本堂に続く庫裏、以前は人懐っこいワンちゃんが窓から外を覗いていました。ご住職にうかがうと、もとから体が悪く数年前に亡くなったそうです。

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庫裏にワンちゃんの絵が飾ってありました。日本画家・西村欣魚の「霊犬」という作品だそうです。庫裏の裏に小さな墓があります。

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鐘楼の前に「大西郷月照王政復古謀議旧跡」の石碑があります。西郷隆盛と清水寺成就院の住職・月照が、ここの茶室・郭公(かっこう)亭で密談をしました。月照は尊皇攘夷派の僧侶で、二人は安政の大獄で幕府に追われる身でした。

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二人は薩摩に逃れましたが、薩摩藩は幕府の責任追及を回避するため、二人を東目(日向)へ追放しました。後ろ盾だった島津斉彬も亡くなり、前途を悲観した二人は入水し、月照だけが死んでしまいました。

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明治維新後の明治4年(1871)上知令によって寺領の大部分が没収され、寺は著しく衰退しましたが、昭和初期に境内の整備が行われて現在に至ります。本堂の裏にある「成田山不動尊ご分霊」

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与謝野礼厳(れいごん、1823-1898)は、西本願寺の役僧で歌人・国学者でもありました。幕末には勤王活動に奔走し、維新後は小学校や療病院設立など社会福祉事業に努めました。明治29年(1896)に妻を亡くし、その年の冬から清閑寺に隠棲しました。

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礼厳は生涯3万首もの和歌を詠みましたが、まったく世に知られていませんでした。その13回忌に子供たちが集まり、歌集を出版することになりました。一番年下で歌人でもあった四男・与謝野鉄幹が選んだのが『礼厳法師歌集』です。

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清閑寺に隠棲を始めた翌年の春に詠んだ句が30首選ばれています。「年を経て世にすてられし身の幸は人なき山の花を見るかな」、「うつせみの世に捨てられて山に入れば我より前(さき)に花ぞかをれる」、「かなしさも忘るるばかり山寺の庭をきよめてちる桜かな」

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清水坂に、表に猿を繋いで商売をする家があり、出かけるときに見るのが哀れで、「餌乞ひして手を合せたる飼猿を我とし見れば身にせまるかな」。

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この後、「歌の中山」を通って清水寺に向かいました。

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コメント

ワンちゃんの絵。
いい絵ですね。
なんか、絵から出てきてうろうろしてそうです。

投稿: munixyu | 2017年8月31日 (木) 09:44

★munixyuさん こんばんは♪
ワンちゃんは、絵とまったく同じ姿で、庫裏の窓から外を眺めていました。わざわざ画家に絵を描かせるなんで、大事にしてもらったようですね。

投稿: りせ | 2017年8月31日 (木) 23:47

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